東島雅昌 恐怖支配から恩寵政治へ? 権威主義体制の変貌する統治手法(前編)
(『中央公論』2022年1月号より)
- 独裁政治が用いる暴力と抑圧
- 暴力と抑圧の三つの代償
- 選挙の実施が規範化した現代の独裁制
独裁政治が用いる暴力と抑圧
「君主たるもの、慕われるよりも恐れられる存在にならなければなりません」。フィレンツェ共和国の外交官・歴史家であったニッコロ・マキャヴェッリは、政治変動と群雄割拠の内憂外患に苦しむルネサンス期イタリアに著した『君主論』で、民衆への恩情に根差す統治よりも、恐怖に基づく支配のほうが体制維持に優れていることを強調した。曰く「なぜならば、邪(よこしま)な人間は自分の利害に反すれば、恩愛という義務の鎖を断ち切ってしまうが、恐怖は付きまとって離れない処罰の影を通じて、つなぎとめつづけるから」と。
米国の求心力低下や中国の台頭など、国際政治の大きなパワーバランスの変化と軌を一にするように、欧米各国では現代民主主義の機能不全が語られるようになった。いわゆる「民主主義の危機」が指摘されるとともに、それと対をなす権威主義体制(独裁制)、すなわち市民の権利と自由を制限し公正な選挙を実施しない政治もまた、改めて注目されている。この権威主義政治が論じられるときに、しばしば強調されるのは、マキャヴェッリの箴言の正しさ、つまり独裁政治の本質は恐怖による統治であり、暴力と抑圧こそがその手段であるということだ。
中国の習近平体制による思想統制や新疆ウイグルでの政治弾圧、ロシアのプーチン体制が行使する野党政治家やジャーナリストへの暴力、ミャンマーの軍事政権が振るう民主派市民への無差別暴力、アフガニスタンのタリバン政権による人権抑圧と女性差別、そして北朝鮮の金体制の人民抑圧などを見ると、権威主義体制の指導者(独裁者)の統治手段に暴力と抑圧が含まれる事実は疑いようもない。しかし、暴力が独裁者にとって常に最適の統治術であるわけでもない。独裁者が自らの体制を維持しようとするとき、独裁者でさえも多くの制約に直面し、それへの適応を迫られることを正しく認識しなければならないのである。