宇野重規×中北浩爾 融通無碍に膨脹する保守――イズムを失い漂う左派

中北浩爾(一橋大学教授)×宇野重規(東京大学教授)

保守と保守主義、リベラル

――今回のテーマは「非・保守」ですが、そもそも保守とは何かという問題もあります。


宇野 私は、『保守主義とは何か』という本でこの問題を論じましたが、そもそも日本の保守主義は守るべき思想があるかどうか怪しいと思っています。保守主義の原点である政治家・思想家のエドマンド・バーク(1729~97)にとっては、名誉革命によって成立したイギリスの自由な体制を守ることが大前提でした。その点、日本の保守はいかなる政治体制を守るべきなのか、どういう制度、伝統や価値を残すのかということがはっきりしていない。


中北 政治勢力としての「保守」と政治思想としての「保守主義」は違うということです。保守を自称する政治勢力は日本にも存在してきましたが、保守主義は狭い範囲にしか見出すことができません。


宇野 敵がはっきりしているときの「保守」は明確です。フランス革命、社会主義、あるいは大きな政府に対抗していたときはいいが、相手がぼやけてしまった瞬間、保守は何を保守すべきかがわからなくなる。

 そして、保守に対抗するものとしてよく使われるリベラルという言葉も多義的で、もう一度議論の必要があると思います。保守が仲間うちや同じ国民を大切にするのだとしたら、リベラルは普遍主義に立ち、少数派、多様性に対して配慮する立場ですから、今後も、保守との対立軸は残るでしょう。そして、多様な生き方を認めるという意味でのリベラリズムの存在意義はあるはずです。


中北 戦後日本で政治勢力としての保守の対立概念は「革新」です。日米安保に賛成し、資本主義を擁護する保守の自民党に対して、日米安保に反対し、社会主義を指向するのが社会党や共産党など「革新」でした。保革対立は1970年代末に保守の勝利がほぼ決まり、80年代末の冷戦の終焉でそれが確定しました。

 一方、「リベラル」は、日本国憲法に体現される戦後的価値を擁護する政治勢力です。保守にも革新にも非リベラルが存在し、終戦後しばらくは、むしろ主流でした。自民党は自主憲法の制定を掲げ、共産党は新憲法に反対しました。

 転機は60年安保です。親米的な保守では、池田勇人政権を支えた宏池会の宮澤喜一らが憲法改正を先送りし、ニュー・ライトと呼ばれます。社会党でも江田三郎ら右派が「憲法完全実施」論を唱え、保守と革新いずれでもリベラルが台頭します。

 80年代には、自民党内で自主憲法の制定に固執する非リベラル保守の「右派」に対し、宏池会など「リベラル保守」が優位を占めます。これこそ戦後日本の保守主義と位置づけられるでしょう。89年には宏池会の白川勝彦が『戦うリベラル』という著書を出しています。

 さらに冷戦が終焉すると、魅力を失った革新では、社会民主主義的なリベラルへの転換が進みます。


宇野 ほとんど同意です。戦後の日本では、保守と革新という対立軸があったのに、なし崩し的に保守とリベラルになりました。革新のうち、何が今のリベラルに継承されたのか、それとも単に革新がリベラルに看板を付け替えただけなのか、そこを明確にすることが大切だと思います。

 保守とリベラルは本来、対立概念ではありません。保守は現行体制のなかにある価値を維持し、それを発展させる思想だから、対になるのは急進主義です。他方、リベラルは個人の自由や多様性を尊重しますが、それに対立するのは、ある種の権威主義というか、個人の自由を抑圧する考え方です。それは必ずしも保守主義ではありません。

 アメリカの、自由を共通理念とした上での、共和党的な保守と、民主党的なリベラルという対立概念を機械的に日本に当てはめるから混乱の種になる。

 戦後憲法を遵守しながら、そのなかにある自由の原理を拡大するのが本来の保守に近い。宏池会的な伝統のほうがリベラルな保守に近いわけです。宏池会は、日本のリベラルを考える上での一つのポイントになると思います。ただ、その宏池会の伝統も宮澤政権の終焉、さらには2000年の「加藤の乱」(加藤紘一元自民党幹事長による倒閣運動)で終わり、その後宏池会は勢力を失います。今、岸田総理はよく「宏池会だ」と言われますが、それはかつての宏池会とどこまで連続性があり、どこが違うのか。ここはきちんと議論しなければいけない。


中北 岸田総理の改憲への態度がリトマス試験紙になるでしょう。

 ただ、現在の日本社会に戦後的価値が根付いているのを見ると、戦前への回帰を指向する右派を抑えてきたリベラル保守の役割は大きかったと思います。

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