前原誠司 いつも本気で叱ってくれた――稲盛和夫の思想と行動

前原誠司(国民民主党代表代行・元外相)

出入り禁止に

c__JAN7495.jpg前原誠司氏

 稲盛さんとの思い出はたくさんありますが、何と言っても一番は、2005年の民主党代表選挙の時です。小泉純一郎首相による、いわゆる郵政解散総選挙があり、民主党は惨敗しました。代表だった岡田克也さんは辞任することになりました。

 それぞれ、選挙後のあいさつ回りを済ませ、東京で何人かの議員で集まることになったのです。メンバーは、野田佳彦さん、枝野幸男さん、光一郎さんと私です。確か、投票日の翌日でした。私は大阪で会合に出席した後、伊丹空港から飛行機に乗り、羽田空港に向かいました。

 羽田に到着後、携帯電話の電源を入れたら着信がたくさんあって、稲盛さんの秘書からでした。電話をかけ直したら、「稲盛に代わります」と言われ、出てきた稲盛さんが「今、小沢一郎さんが京都の京セラ本社に来ている。お前を『次の代表に』と言っておられるけれども、どうだ」とおっしゃる。

 実はその前に、小沢さんから一対一で食事に誘われ、「岡田代表の後はお前を応援する」と言われていました。だから、ピンと来たのですが、稲盛さんには「小沢先生は何とおっしゃっていますか」と聞きました。そうしたら、「俺が幹事長で前原代表を支える」と言っているとのこと。「なんだ、もう幹事長は決まっているのか」と思って、ある言葉が頭に浮かびました。海部俊樹首相の時、自民党幹事長だった小沢さんが言ったという「みこし(首相)は軽くてパーがいい」です。私は当時43歳。小沢さんをコントロールできる自信も、力量も全くなかった。それで、稲盛さんには「一晩考えさせてください」と伝えました。

 そうしたら「俺は明日東京に行くから、八重洲の京セラ(事業所)に来てくれ」と言われました。その夜、野田さん、枝野さん、玄葉さんに会って、「実はこんなこと言われた」と打ち明けたら、みんな「やめとけ、やめとけ」と言う。私は稲盛さんに言われてありがたかったですけど、自信がなかった。「小沢さんを使いこなすなんて、とてもじゃないけど手に負えない」という感じで......。

 それで翌日、京セラに伺って、お断りしたんです。稲盛さんは「俺の好意を無にするのか」と言わんばかりの雰囲気で、すごく機嫌が悪くて。後で秘書に聞いたところでは、実は隣の部屋にはもう小沢さんが待っておられたという。稲盛さんは、私の東京後援会長です。だから自分が言えば受けるはずだと思ったのに、断られた。恥をかかされた、というお気持ちだったのでしょう。

 その日はそれで失礼しましたが、それから毎日、野田さんたちと話をしたけれど、みんな全く(代表を)やる気がない。それで、結局、私が出馬することになりました。普通、そんなことをしたら怒られますわね。断っておいて、出るなんていうことは。稲盛さんからは、しばらくの間「出入り禁止」にされました。代表選では菅直人さんと戦って、結局、2票差で勝ちました。

 稲盛さんの出入り禁止は、2年間くらいは続いたでしょうか。それが解かれたのは、自民党から民主党への政権交代がだんだん現実に近づいてきてからです。解禁になった後は、また親しくさせていただいて、「頑張れ、頑張れ」と言われて、色々な方をご紹介いただきました。

 稲盛さんは「政権交代可能な政治を作る」とずっとおっしゃっていた。民主党が良いとか、自民党が全く駄目だとかいうことではなくて、必要なのは政権交代ができることなのだと。そのために、民主党を応援してくださったのですね。今思うと、その姿勢は一貫しています。京セラを設立して、立派な会社に育てた。KDDIという全く畑の違うところで力を尽くされたが、これはNTTというガリバーに対抗する通信会社を作らないといけないという思いからでした。

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