政治家の権謀術数 渡辺恒雄が存在を突き止めた「総理後継密約書」とは
岸が密約を交わした背景は
なぜ岸は後継総理大臣まで約した密約書を作成したのか。背景には岸政権末期の激しい派閥抗争があった。1950年代後半、「八個師団」の派閥は激しい勢力争いを続けていた。岸が政権最大の課題として掲げていた日米安全保障条約改定をめぐって、自民党内ですら賛否は割れた状態であった。
そこに派閥単位の権力闘争が相まって、岸政権の屋台骨が揺るぎかねない事態となっていたのだ。とりわけ密約の交わされた1959(昭和34)年の初頭にかけて、岸政権は重大な危機に瀕していた。前年に安保改定を見据えて成立を図った警察官職務執行法改正案が廃案となり、政権運営に党内外から厳しい批判が起きていた。
さらに岸の苦境を見透かした池田勇人ら三閣僚が、政権を批判して辞任する事態となっていたのだ。自民党総裁選挙を間近に控える岸にとって、党内の支持を繋ぎ止めることは政権維持、そして安保改定実現に向けた必須要件となっていた。
東京国際大学名誉教授の原彬久は、岸政権時代の「八個師団」の派閥について、「主流核」、「反主流核」、「日和見派閥」に分類している(※1)。すなわち、岸政権の中核をなす「主流核」は、岸信介率いる岸派、岸の弟の佐藤栄作率いる佐藤派、岸に対して批判的で非妥協的な態度を貫く「反主流核」は、松村謙三と三木武夫の率いる松村・三木派、元総理の石橋湛山率いる石橋派、そして時と場合により協力と非協力を使い分ける「日和見派閥」は、大野伴睦率いる大野派、池田勇人率いる池田派、河野一郎率いる河野派、石井光次郎率いる石井派であった。
岸が党内基盤を固め、安保改定を推進する上で重要だったのが、「日和見派閥」の協力を得ることだった。この日和見派閥の中でも鍵を握っていたのが、党内第二派閥を率いていた大野伴睦だった。安保改定に政権の命運を賭けていた岸は、協力の見返りに、大野に次期総理の座を譲るという密約を交わしていたのだ。
大野はこの申し合わせに従い党内の混乱収拾に乗り出し、密約の交わされた8日後の1959(昭和34)年1月24日に行われた総裁選挙でも、岸支持を打ち出した。その結果、岸は総裁再選を果たし、翌年に悲願の安保改定を実現する。