政治家の権謀術数 渡辺恒雄が存在を突き止めた「総理後継密約書」とは

権力の中枢を見た最後の証人 独占告白

「白さも白し富士の白雪」 岸の意趣返し

「白さも白し富士の白雪」。その言葉は4年前の1956(昭和31)年、岸が石橋湛山らとしのぎを削った自民党総裁選挙で、大野自身が岸に対して告げた科白だった。選挙戦で岸から協力を求められた大野が、「派としての態度は白紙だ」と婉曲的に協力を拒否した際に、この科白を岸に告げたのだ。実際に大野は総裁選挙で官僚派の岸ではなく、同じく党人派である石橋を支援した。

 

このことから「白さも白し富士の白雪」の後には「溶けて流れて三島に注ぐ」の句が続くと言われた。ちなみに静岡県三島市は石橋の選挙区(中選挙区時代の旧静岡二区)である。大野派の派閥名称「白政会」は、政界で一時流行した大野のこの科白に由来するものだ(※5)。

 

大野の石橋に対する支援もあり、総裁選挙で岸は石橋に僅差で敗れた。決選投票での票差はわずかに七票、大野が支援していれば岸が勝利していた可能性も高かった。この総裁選挙で苦杯を嘗めた岸は、支援要請を袖にされた4年前の意趣返しとして、渡辺にこの科白を告げたのだ。渡辺は大野の下へ急行し、次のように伝えたという。

 

4年前の総裁選挙であなたが言ったことを岸が繰り返した。これはあなたが総裁選での岸への協力を拒んだときの言葉だ。それを持ち出したんだから、もう岸は絶対あなたに入れない」

 

事実、総裁選挙で岸は大野の支援に動くことはなかった。密約を反故にした理由について、岸は大野を突き放すかのような言葉を、後に原彬久が行ったインタビューで述べている。

 

――岸さんは後継総裁として大野さんを考えておられなかったのですか。

「それは考えてなかったですよ。大野君には総裁競争から降りるよう話したんだけれどもね。党内でなかなか支持者が増えないんだ。総理の器じゃないという議論がありましてね。彼を総理にするということは、床の間に肥担桶を置くようなものだ、という話もあったよ」

 

結局大野は、総裁選挙への立候補を断念する。岸からの支援が反故にされたのみならず、「党人派連合」を組んでいた石井光次郎の陣営が池田勇人に切り崩され、決選投票で自身の支援に回る見込みがなくなり、勝利の可能性が消失したことが断念の理由だった。

 

 

※1、原彬久『戦後日本と国際政治―安保改定の政治力学』中央公論社、1988年、332頁。

※2、大野伴睦「陰謀政治は許されない!」『サンデー毎日』1960731日号、毎日新聞社、13頁。

※3、大野伴睦『大野伴睦回想録』弘文堂、1964年、105頁。

※4、大野前掲『大野伴睦回想録』108頁。

※5、渡辺前掲『派閥』125頁。

独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた

安井 浩一郎

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1945年、19歳で学徒出陣により徴兵され、戦争と軍隊を嫌悪した渡辺。政治記者となって目にしたのは、嫉妬が渦巻き、カネが飛び交う永田町政治の現実だった――。「総理大臣禅譲密約書」の真相、日韓国交正常化交渉と沖縄返還の裏側、歴代総理大臣の素顔。戦後日本が生んだ稀代のリアリストが、縦横無尽に語り尽くす。

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