三田会、開成高校、医学部の抗争...学閥の現在と功罪
東大に対抗して医学部を創設
学閥同士がぶつかる世界もある。医学部である。国立の雄・東大と私大の雄・慶應は最大のライバルだ。元々、東大医学部は日本の医療界の近代化を急ピッチで進めるために、明治政府がつくった機関である。いわば、全国各地に設けられる医学校の指導者を養成するのが目的だった。東大医学部で学んだ医師たちが各校に教授として送り込まれていく。そうして東大を頂点とする医療界のヒエラルキーが築かれていくのである。
この官僚的構造に反発するように生まれたのが慶應医学部だった。つくったのはペスト菌発見で知られる北里柴三郎である。東大医学部出身の北里が母校を憎むようになったのはドイツ留学中のことだった。東大医学部の重鎮で細菌学者の緒方正規が唱える脚気菌の発見を否定する論文を、北里がドイツの専門誌に発表。北里のほうが正しかったのだが、東大幹部たちの逆鱗に触れた。北里は帰国してもポストを与えられず、干されてしまったのだ。
失意の北里に手を差し伸べたのが福澤諭吉だった。福澤のバックアップで北里は伝染病研究所を開設し、所長に就いた。ところがここでも、東大の横槍が入る。当時の大隈重信内閣が伝染病研究所の所管を内務省から旧文部省に移し、東大と合併させ、北里から所長の座を奪うのである。東大医学部長に就いていた青山胤通(たねみち)の策略だった。内科の権威として知られる青山は、大隈の主治医を務め、碁打ち仲間でもあった。
怒りが頂点に達していた北里に再び声をかけたのは慶應である。福澤はすでに他界していたが、慶應に医学部をつくるのは悲願だった。それよりも前に一度、医学所を開設していたが、資金が続かず閉鎖を余儀なくされていた。福澤の遺志を継いで慶應に医学科ができたのは1917年。3年後に医学部に改組した。
以降、慶應医学部は目覚ましい発展を遂げるわけだが、その原動力となったのは福澤が最も嫌った官僚的な手法だった。東大と同じように、学内外に厳然としたヒエラルキーを築くのである。まず学内だが、医局講座制が採られた。医局(診療科)と研究室の陣容を合致させ、教授を頂点として、助教授、講師、助教、医員というピラミッドをつくる。教授の命令は絶対で、医員たちは命じられるままに地方の病院に派遣され、勤務することになる。
こうした病院は「ジッツ」と呼ばれる。「座る」という意味のドイツ語に由来し、大学医局の植民地とも呼ぶべき関連病院を指す。医局にとっては医員の受け入れ先ができ、一方、病院側にとっても医師を確保できるメリットがある。大学医学部はこうして関連病院を増やしていき、学外での勢力を拡大し、医療界での学閥が出来上がっていくのである。(一部敬称略)
(続きは『中央公論』2024年5号で)
1958年東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。医療問題、企業経営などについて執筆。著書に『慶應三田会の人脈と実力』『三菱財閥最強の秘密』『慶應幼稚舎の秘密』『名門校の真実(リアル)』など。