- 歴史にどうフォーカスするのか
- 近代政治学とレヴァイアサン・グループをめぐって
- 「丸山眞男の長い影」
- パブリック・インテレクチュアルとしての佐藤誠三郎
- 学問史のなかの人脈をどう見るか
歴史にどうフォーカスするのか
酒井大輔(以下、酒井) 日曜日にもかかわらず、多くの方々にお集りいただきありがとうございます。昨年12月に『日本政治学史』を出したのですが、それぞれ政治思想史と政治外交史のご専門のお二方からすれば、内容について言いたいことをお持ちではないか、と思ったものですから、あれこれおうかがいしたいという趣旨でございます。
本書は、戦後日本の政治学の歴史をたどるものです。代表的な学者を取り上げて、パイオニアとしての仕事を見ていく。ある人に言わせれば、「本書は政治学の『プロジェクトX』みたいなものだ」と。ただ、単なる偉人列伝ではなくて、「科学としての政治学」という問題含みのスローガンがどう受容され、変容したかを描く狙いもあります。
エクスキューズすべきは、本書の対象として、現代日本政治の分野にフォーカスしたことですね。政治学者の仕事は、他にも外国政治や政治思想史、あるいは政治史など多々あるわけですし、のみならず、ひと頃までは政治思想史や政治史が王道だったとも言われる。だとすると、現代日本政治に焦点を絞った本書は、学問史の記述として十分に体系的ではないのではないか、そうおっしゃる方もいます。
まず本書のご感想を河野先生からおうかがいできればと......。
河野有理(以下、河野) 刊行記念イベントという場なので「ひいき」して言うわけじゃないですけれども、おそらく会場の皆さんと同様に、私は『日本政治学史』をすごく楽しく読んだんですね。本書は、どういう予備知識をお持ちかによって読み方が変わるでしょう。ちょっと玄人筋の方は、いわゆるポリティカル・サイエンス(以下、ポリサイ)が政治学の中でどう扱われているのか、それが歴史記述の中にどう反映しているのか、という関心のもとで読んでいるように思います。
もしかしたら私の今日の役回りは、「いや、やっぱり丸山眞男以来の政治思想を中心とした政治学が大事なんだ」、「こういう本はけしからん」などと言うことを期待されているのかもしれません。が、私の感想は、そういう類いのものではありません。
本書に先行して日本政治学史を扱った2冊と比較してみましょう。2001年刊行の田口富久治『戦後日本政治学史』は、包括的で行き届いた政治学史の像を描いています。浩瀚な本なので論旨は単純ではないのですが、言ってしまえば「ポリサイ、けしからん」と(笑)。「レヴァイアサン・グループ許すまじ」という史観で語っていると見えないこともない。レヴァイアサン・グループとは、1987年に創刊された雑誌『レヴァイアサン』に集った政治学者に対する呼称で、一般的にはポリサイの拠点になったというイメージを持たれています。で、田口は「ポリサイみたいなものがはびこったから政治学は悪くなったんだ」という史観と読めないこともない本を書いている。他方、レヴァイアサン・グループの中核とも言うべき大嶽秀夫先生は、1994年に『戦後政治と政治学』を出しています。大嶽先生は、自分たちの視点から戦後政治学史を描いているわけですね。
で、われわれから見ると、やっぱり酒井さんの立ち位置が絶妙だなと。つまり、仮に田口富久治の本を反レヴァイアサン・グループ史観、大嶽先生の政治学史をレヴァイアサン史観だとすると、酒井さんの本の巧妙なところは、両方にある種の距離をちゃんと取っていることだと。単純な行動論政治学の礼賛史ではもちろんないし、他方で「行動論がはびこって規範的な政治学がだめになった」という単純な反・行動論政治学史でもない。それがこの本の大きな特徴であり、うまいところだと思いましたね。
前田亮介(以下、前田) 戦後日本の政治学の学問史を書くとき、科学的な話、ポリサイの源流的な話は抜け落ちがちなんですよね。最近は計量政治学のパイオニアでもあった京極純一についての研究なども出てきていますが、どうしても政治思想史・政治史に軸を置いてしまうし、暗黙のうちに東京大学法学部を中心に描く面もあります。
『日本政治学史』は、関西や名古屋の大学関係者も含め、日本の政治学の歴史を多元的な運動体として描いている。そして日本政治学会を立ち上げる時、当初は指導的な立場になるはずだった鈴木安蔵のように、今では傍流に位置づけられる人も含めて、総合的に書かれています。そこがとても面白く思いました。
河野先生が出された論点に少し重なりますが、行動論革命から戦後政治学が始まって、しかし同じく行動論を意識していた人たちが、だんだんそれぞれの関心に沿って分化していく。そして、実際には学問的な継承関係や連続性もあったとはいえ、断絶を強調するような強い言葉による論争や世代間の闘争が起き、複数の「学派」が生まれ、日本政治学史が展開していく。そういう諸潮流の間の交錯と分断を一本筋で描く書き方が印象的でした。
私が酒井さんの存在をはじめて知ったのは、大嶽秀夫の政治学史についてニュアンスに富む思想史的な分析をなさっていたブログを通してです。対象の選択自体、「最近の研究者を対象にして、このように面白く読めるのか」という驚きがまずありましたし、アプローチの点からも当初、酒井さんは政治思想史的な関心を持った人なのかなと思ったのです。最近のご研究のような、計量書誌学の手法を使われる印象はなかった。だから、京極純一や高畠通敏の「二つの魂」じゃないですけど、本書では酒井さんご自身の「思想史の魂」と「計量政治学の魂」が統合されている印象を抱きました。
ですけど、本書で気になる点の一つは、篠原一が登場しないことですね。篠原は計量より数理になりますが、連合理論やフォーマル・セオリーにも関心を持っていました。そういう意味では、彼もポリサイ起源の研究者なのです。本書でも、篠原のネオ・コーポラティズムや「市民の政治学」など、いくつか言及がありますが、彼にはこの他にいわばインフルエンサー、パブリック・インテレクチュアル(公共的な知識人)としての面もあります。
酒井 篠原一をあえて本書の議論に位置づけると、市民政治学の潮流に入るのでしょう。本書では「科学としての政治学」は、二つに分岐したと書きました。一つは三宅一郎のように、科学として純化していく方向。もう一つが、市民の自己認識としての政治学を確立しようとする市民政治学です。本書の議論の中核になった潮流とは、対抗的な立ち位置に篠原は属したのではないか、と理解しています。