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未来型戦争はサイバー攻撃から始まる

土屋大洋(慶應義塾大学グローバルセキュリティ研究所副所長)

日本に対して、組織的なサイバー攻撃が仕掛けられている。防衛産業の機密が狙われ、国会議員の電子メールのパスワードが盗まれ、同盟国の情報までも盗まれようとしている。
 しかし、「攻撃」といっても、人類がこれまで経験してきた攻撃とは異なる。攻撃する側も、攻撃される側も、もはや国家が擁する軍隊には限らない。いわば民兵(ミリシア)と傭兵が情報通信機器を使って国家や非国家組織、そして個人を狙い撃ちしている。最初は単なるいたずらだったものが、相手の活動を妨害したり、機密情報を盗んだり、軍事・政治・経済・社会システムを麻痺させようとしている。いわゆる「非伝統的安全保障」が本格化している。

世界有数の電子国家へのサイバー攻撃

バルト三国の一角を担うエストニア首都タリンの中心部にある広場からブロンズ像が撤去されたのは二〇〇七年である。このブロンズ像の下には一〇名以上のソ連兵の遺体が眠っていた。エストニア政府は丁重に遺体を掘り起こし、遺族に連絡を取り、遺族が希望する場所に遺体は移された。そして、ブロンズ像もタリン中心から南方へ三キロほど離れた軍人墓地へと移された。墓地の入り口からもすぐに分かる二メートルほどの兵士の姿をした像である。

 エストニアとソ連の関係は容易には理解できない。いまだに両国の歴史は一致を見ていないからである。ソ連側から見ると、一九四〇年にエストニアは合法的な手続きによってソ連に併合されたが、エストニア側から見ると無理やり併合されたことになる。一九九一年にソ連から独立した後も、多くのロシア人がエストニア内で生活している。エストニア国会の前にはロシア正教の大きな教会が構えている。エストニアの民族主義者たちはできるだけ早くソ連時代の遺産を視界からなくしたい。ブロンズ像の移設はそうした長年の思いの現れであった。

 しかし、このブロンズ像の移設はエストニア国内のロシア系住民と愛国的なロシア国民を刺激することになった。ロシアのテレビでブロンズ像の移設が報じられると、エストニアの措置に反対する声がわき起こり、そして、ほどなくエストニアに対するサイバー攻撃が始まった。世界中から想定許容量を超えるアクセスがエストニアに殺到し、サーバーが耐えられなくなり、金融サービスやマスメディアなどのサービスが停止に追い込まれた。

 実はエストニアは世界でも有数の電子国家である。人々はほとんど現金を持ち歩かなくなっている。日本のスイカやエディのような電子マネーでほとんどの支払いができるようになっている。その裏で動いている情報通信ネットワークが経済活動の根幹を支えている。そこが狙われ、被害は数日間続いた。

犯人が捕まらない

 ところが、この「攻撃」では犯人が捕まっていない。誰が犯人かさえも分かっていない。エストニアのインターネット・サービスに殺到した個々のアクセスは、見かけ上は通常のものと変わらない。われわれが誰かに電子メールを送ったり、ウェブ・サイトを見に行ったり、オンライン決済をしたりするときに送られるデジタル信号と同じものがサーバーに寄せられた。しかし、その量が想定を超えるものだったのだ。そうしたデジタル信号の発信源は世界各地に広がり、たいていは一般人の所有するパソコンだった。普通と違うのは、それらのパソコンがウイルスに感染していることだった。

 ウイルスといっても、パソコンの中身を消したり、勝手に電子メールを送信したりするものではない。パソコンの所有者は自分のパソコンがウイルスに感染していることすら気づいていない。いつの間にかウイルスに感染し、そのウイルスの作成者が設定した時間になると、一斉に標的に向かってデジタル信号を送信し始めるのだ。標的となった側は、通常のアクセスなのか、ウイルスによるアクセスなのかを見分けることができない。殺到するアクセスに呆然とし、サーバーが耐えきれなくなって停止するのを待つか、接続を切り離すしかない。

〔『中央公論』2012年3月号より〕