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「チフスのメアリー」 無症状感染者の"隔離 "という問題

COVID-19パンデミックとサイレント・キャリアの人権
小川眞里子
Judith Walzer Leavitt, Typhoid Mary: Captive to the Public's Health, Beacon Press, Boston, Massachusetts, 1996 
自覚症状がないままに病原菌を保有し、多くの人に病気を移す可能性がある無症状性の病原体拡散者「サイレント・キャリア」。COVID‐19でも、流行制御を困難にしている重大な問題である。「サイレント・キャリア」として、歴史上とくに名前が挙げられてきたのが、「チフスのメアリー」ことメアリー・マローン(1869-1938)だ。終生隔離島で過ごすことになった彼女の人生とは――。
※本稿は、日本科学協会編『科学と倫理――AI時代に問われる探求と責任』内「感染症の科学と倫理」(小川眞里子)の一部を抜粋・再編集したものです。

 サイレント・キャリアと人権

 感染症のいくつかは、罹患してもほとんど無症状という人が存在する。感染後の症状がきわめて重篤であれば、病気に対する警戒感も強くなるはずである。

 感染者が重篤な症状を示せば、患者を隔離することは当然行われるだろう。しかし、外見上まったく罹患者とは見えず、本人も自覚症状がないままに多くの人に病気を移している場合がある。

 こうした無症状性の病原体拡散者は、サイレント・キャリアと呼ばれ、今回のCOVID‐19でも重大な問題として、2020年五月下旬頃から議論されるようになった。同じコロナウイルスでもSARS(SevereAcute Respiratory Syndrome 重症急性呼吸器症候群)やMERS(Middle East Respiratory Syndrome 中東呼吸器症候群)の場合には、不特定多数の人に感染させる頃には、本人が重篤な症状で病院に運ばれ隔離されることになった。COVID‐19の難しさはサイレント・キャリアにあり、これに人権といった倫理的問題も絡んでくる。健康保菌者の有名な先行例として「チフスのメアリー」がある。

 まったく病気の自覚症状がないままに、多くの人に腸チフスを感染させたということで、歴史上とくに名前が挙げられてきたのが「チフスのメアリー」ことメアリー・マローン(一八六九―一九三八)である。彼女は少女時代の一八八三年に、両親と一緒にアイルランドから米国に移住し、最初は家事使用人として、のちに料理の上手さを買われ住み込みの賄い婦として生計を立てるようになった。ところが彼女を雇った家庭内で腸チフス患者が多発し、犠牲者を出した家族からの依頼を受けて、衛生工学の専門家ジョージ・ソーパーが調査に当たることになった。果たせるかな一九〇〇年からの七年間にメアリーを雇用した家庭から二二人の患者、および内一人の死者が出ていたことが判明し、一九〇七年彼はメアリーに面会して真相究明に乗り出した。

 抵抗するメアリーとの間で多くの確執があり、ソーパーは女性衛生官に協力を求め、最終的にメアリーは両名によって、伝染病専門病院に送られた。そこで詳細な医学的検査が行われた結果、メアリーは腸チフスの健康保菌者であることが判明し、ノース・ブラザー島というニューヨーク市内の隔離島に送られることになった。それから二年を超える隔離生活を経て彼女は一九〇九年に自らの解放を求めて訴訟を起こした。裁判の争点は健康を自認する人間を無際限に隔離状態に拘束することの妥当性であった。当時、メアリーのような腸チフスの健康保菌者はニューヨークに一〇〇人前後存在することが推定されていたので、何故メアリーだけがという疑問にも一理ある。ただしこの裁判の判決でメアリーは釈放されず、彼女が自由の身となったのは、さらにその半年後であった。

 その後一九一五年ニューヨークの婦人科病院で腸チフスの集団発生が起こり、調査が行われてみると、感染防止の観点から料理人の仕事を禁じられていたメアリーが、この集団感染を引き起こした張本人として浮かび上がったのである。彼女は偽名を使って料理人の仕事をしていた。世論は厳しく、再逮捕された彼女は終生隔離島で過ごすことになった。

 実際のところメアリーのような健康保菌者の人権は、どのように考えられるべきなのだろう。四〇歳頃から四半世紀の長きにわたって隔離島に拘束することが妥当な判断だったのだろうか。感染症の重大さは、時代と共に変化する。二〇世紀初めの頃の腸チフスの受け止め方と、有効な抗菌薬のある今日の受け止め方には大きな違いがあるだろう。さらにその問題は、現在世界中を震撼させているCOVID‐19のサイレント・キャリアではどう考えたらよいのだろう。

 ハンセン病の痛ましい歴史への反省

 COVID‐19流行の初期にはよくわからなかったが、半年近い月日が経過する頃から海外のメディアは無症状の感染者に注目し始めた。まだ研究結果も流動的で確信が持てるわけではないが、英国BBCニュースの科学編集者デイビッド・シャクマンらの最近の論説から拾ってみたい。

 腸チフスは感染者の便や尿に汚染された水や食物から感染が広がる経口感染伝染病であるのに対し、COVID‐19は基本的に飛沫感染である。ところがまず問題になったのは、咳や熱などの症状が現れる二四〜四八時間前の感染で、その時期がもっとも感染力が強いらしいということであった。

 ウイルスを飛散させる咳もないままの状態で、いかにして病気を移すことが出来るのかについてはまだ議論の余地はあるものの、およそ二つのケースが考えられた。一つは、ごく自然に呼吸し誰かと話をすることで病気を移すことが出来てしまうというもの。すなわちウイルスが上気道で増殖している状態なら呼気に含まれて拡散の可能性があり、誰かが近くにいれば容易に感染する。もう一つの可能な感染形態は、接触感染である。ウイルスが付着したドアノブや椅子を介して拡散するので、感染に気付いていなければ、どんなルートであっても人々は油断しがちであるという事実に、ウイルスはまるで付け入っているかのようである。

 症状が始まる前から深刻な感染力を発揮するCOVID‐19の厄介さをさらに増幅する究極の形が、全く無症状なままで感染力を維持する健康な病原体保持者である。さまざまな研究がなされているが、無症状者の比率を決める決定的なものはない。症状のある人のみにPCR検査を行っている限り、把握のしようがない。誰が症状なしにウイルスを運んでいるかが分からないということが、COVID‐19パンデミックとの闘いの「アキレス腱」なのである。

 感染拡大を阻止する唯一の方法は、自覚の有無にかかわらず、感染者を積極的に探し出すことであるが、それが出来なければ、すべての人に有効な防御は社会的距離であり、マスクをすることである。互いの人権を尊重する最小限のマナーである。ただし経済活動との両立は難しく、一日も早いワクチンの開発と接種が望まれるところである。

 厳しいロックダウンは、すべての負担を家庭に押しつけたため多くの女性が仕事との両立に困難を来きたし、ストレスを抱えた家族の間では、家庭内暴力、望まない妊娠の急増、さらにそうした相談機関へのアクセスの困難ももたらした。感染症から派生するこれらのジェンダーに纏わる倫理的問題は世界的傾向で、国連女性機関(UN Women)もこうした発信を続けている。

 筆者には十分な知識もないので、安易に論じることは控えなければならないと考えてはいるが、わが国における感染症と言えば、ハンセン病の歴史をけっして忘れてはならないだろう。感染力は弱く患者を社会から厳重に隔離する政策の妥当性は大いに疑問視されるところであったし、いわんや患者たちに負わされた優生学的措置については、償いようのない誤りであった。COVID‐19のような感染症に向き合うとき、わが国におけるハンセン病の痛ましい歴史への反省は生かされねばならない。

科学と倫理-AI時代に問われる探求と責任

日本科学協会編 金子務・酒井邦嘉監修

大震災、新型感染症などの災厄に襲われたとき、どのように社会の期待に応えるか――。AI、生命科学、宇宙科学の急速な進展のなか、いかなる規範を自らに課すべきか――。「科学者の責任」をめぐる13の視座で、最先端の研究をわかりやすく解説する。

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小川眞里子
おがわ・まりこ 1948年生まれ。三重大学名誉教授。専門は科学史。著書に、『フェミニズムと科学/技術』(岩波書店、2001年)、『甦るダーウィン 進化論という物語り』(岩波書店、2003年)、『病原菌と国家―ヴィクトリア時代の衛生・科学・政治―』(名古屋大学出版会、2016年、日本科学史学会学術賞受賞)など。科学技術社会論学会・柿内賢信記念賞受賞(2010年)、澤柳政太郎記念東北大学男女共同参画賞受賞(2017年)。