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鈴木涼美 娼婦になってみれば見える、誰も平気じゃないこの滑稽な世界(岡崎京子『pink』を読む)

第1回 資本主義と愛と整合性のないカラダ(岡崎京子『pink』)
鈴木涼美

不条理な東京に生きる不条理な個人

 何もホストクラブに限らず、もっとユニークな方法で世の矛盾を棚上げにしている人もいます。1989年に発表された岡崎京子『pink』の主人公は、OL兼ホテトル嬢のユミちゃんですが、彼女は一時期、ペットのワニと暮らすことで、矛盾した社会と完璧なバランスを保ちながら暮らしていました。「テレビみたく暮らしたいしananのグラビアみたく暮らしたいな」という彼女は、花屋で買った大好きなピンク色のバラを見て「お金でこんなキレイなもんが買えるんならあたしはいくらでも働くんだ」と力が湧くほど、東京の資本主義とも完璧にうまくやっています。彼女の「スリルとサスペンス」であるワニは、一日10キロものお肉を食べる大食らいで経済的に圧迫してきますが、ユミちゃん的には、「つまんない仕事もBランチの毎日もあたし平気」「だってあたしにはワニがいる」「それを守るためなら何でもするわ」と、彼女にとっての世界を「平気」なものにする最重要なものとしてそれを何より優先します。ワニがいるから「平気」なのだから、ワニがいなければ「平気」じゃないということになります。

 彼女のお母さんはすでに亡くなっていて、母の後釜には「オヤジの金だけが目あてでくっついたインバイ女」が座っています。ユミちゃんはその穢い女を通じて、毎月父親からのお部屋代をもらっています。OLのお給料、ホテトルの客から支払われるオカネ、インバイの継母が渡してくる部屋代は、ワニの胃袋の中に入ってしまえば意味も差異もなくなります。「強くて冷たくて何でも食べちゃう」ワニは、この世がどんな風であってもそれを丸ごと飲み込んで、夜寝る前にはトントンにしてくれる最高のファンタジーです。ホストだって、危険で都合が良く冷たくてどんなオカネも、時にはオカネ以上のものも食べてくれますが、本来は人だって平気で食べてしまえるワニには敵いません。

 さて、継母の子供である小学生の妹は子供であるが故にやたらと本質をつく存在で、その子に言わせれば「オトナってスケベでウソつきだしフクザツでやっだー!」な世の中は、なるほど確かにつまんない仕事や嫌な客、死んだ母親の着物を勝手に着るようなインバイ女で溢れていて、全く不条理なものです。さっきまで「メス犬チンポ」なんて失礼千万だったホテトルの客が、テレビで動物愛護について「ごもっともでせいけつなお話」をしているような社会です。ただ、そんな世界をワニに載せたファンタジーとともに器用に生き抜こうとするユミちゃん自身もまた、特に整合性は取れていません。「早く奥さんになりたいな」「しあわせでみちたりたサザエさん家みたいな家庭がいいな」とか言う割には、「目指すは玉の輿!」なんて夢想するOLの同僚を見て、「そんなにお金欲しければカラダ売ればいいのに」と白けます。そのかわり、自分がどんなに矛盾しても罪悪感に押しつぶされたり、疑問を抱いたりはしません。不条理な東京にいるのだから、個人も不条理であるに決まっているからです。

 そんな風に完璧なオンナであるユミちゃんは先ほど言ったように、ワニがいるから「平気」なので、ワニがいなければ「平気」じゃなくなります。それまで壊れたゴミの山の上で絶妙なバランスで立っていた彼女は、ワニが行方不明になった途端に、「どうしてあたしはここにいるの?」「どうしてここに立ってるの?」と頭の中がクエスチョンマークだらけになって、道にぺたんと座り込んでしまいます。

 ワニは悪者につれさられたことになっていますが、実際は愛のようなものの予感とともに姿を消しているようにも見えます。その直前、継母のツバメである小説家の男の子とセックスしまくっているユミちゃんを見てワニは、「今の御主人様のジョータイは何だ?」と不安になっているからです。

ファンタジーを失ったあとに待っているのは

 そんなわけで、不安定になっていたユミちゃんも、愛とオカネと東京からのエスケープの予感が押し寄せたことで、一気に立ち直ります。新しいファンタジーと、それを具現化する手段が見えたのだから、また「平気」になるに決まっています。そして、目の前のことしか考えないユミちゃんが、ファンタジーに身を委ねる寸前、ざわつく雑踏を「カンケーない」「どーでもいいそんなこと」と、きっぱり無視して、幸福を待ち構えているところで物語は終わります。

 目の前のことしか考えないユミちゃんに見えていないものを見てしまう読者としては、本当はとても残酷な終わり方をする作品です。しかも、その残酷さに、ユミちゃんがホテトル嬢であったことがちょっと関係しているし、愛の暴力性も関係しているし、「あたし達にはカンケーないもん」と彼女が断言したようなことも関係しているので、さらに残酷です。彼女には頑丈なファンタジーがついていたはずで、そのおかげで東京の穢れなんて「平気」で「カンケーない」はずだったのに、実際は死ぬほど関係していたのです。読者としては、そんなのって酷い、という気分になります。

 では、ファンタジーを失った人はどうなるのでしょうか。ワニを失ったユミちゃんは新たなファンタジーを少なくとも一時期手に入れて、再び「平気」な状態になっていました。確かに、壊れた世界をペンディングにできる優先事項は、それが普遍的なものでない限り危なっかしいものですが、だからって、ワニなんかに頼って生き抜こうとしてはいけなかったのでしょうか。ワニというかっこいい生き物やホストクラブというキレイにデコレーションされた箱に、思い通りのドラマチックなファンタジーを詰めて生き抜こうとするのはやっぱりリスキーに過ぎるんでしょうか。そういえば『pink』の悪役である継母も、かつては鏡を見るのが大好きで、欲しいものを何でも手に入れる、資本主義と仲の良い若い女でした。今でも小学生の娘に「ママみたいにしあわせになるのよ」と虚勢を張るくらいの元気はありますが、内実とてもイライラしていて、彼女もまた人間の男というペットを買って飼っています。そしてそのファンタジーが壊されるとイライラは頂点に達してしまいます。

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