鈴木涼美 娼婦になってみれば見える、誰も平気じゃないこの滑稽な世界(岡崎京子『pink』を読む)
そもそも誰も平気じゃない
『pink』が描かれた80年代から90年前後に比べて、93年刊の『愛の生活』あたりから岡崎京子作品はもう少しヒリヒリした匂いを帯びてきて、あんまり「平気」じゃない、その平気じゃなさをもっと突き詰めて描かれることが増えていきます。『ヘルタースケルター』『リバーズ・エッジ』『チワワちゃん』と、最近になって比較的後期の作品が映画化されたのは、平気さよりも平気じゃなさの方が生真面目に「平気じゃないし生きづらい」と唱える今の時代の女の子たちにとって、寄り添いやすいからかもしれません。やっぱり誰も平気じゃない。
個人的にも世界が平気じゃないことには同意します。でも、平気じゃなくなることなんてありえないとも思っています。危ういファンタジーでとりあえず「平気」になることはあまりに危なっかしいけど、それ以外の「平気」は検討がつきません。だって娼婦になってみれば見えるように、この世はあまりに欺瞞と矛盾に満ちています。偉い先生は「平気じゃないことと向き合い、言語化して、悩みなさい」と言うかもしれません。それも一つの生き延びる方法かもしれませんが、そんな体力がある日ばかりではないし、そもそも平気じゃないのだから、別にそっちの方が偉いともそこまでは思いません。
そう言えば、最近芥川賞を受賞した宇佐見りん『推し、燃ゆ』も、優先事項足りうるファンタジーとその喪失の物語でした。その主人公にしても、『pink』のユミちゃんにしても、優先事項の喪失は非常に平気じゃない事態ではあるし、喪失が薄々見えているのにそれさえあれば平気という危なっかしい状態になってしまった彼女たちは愚かでもあるし、ユミちゃんがその後どうなったか私たちは知る由もないのだけど、そもそも誰も平気じゃないのだから、一回でも「平気」になった彼女たちは賢い上に幸福であるような気もします。誰も平気じゃないこの滑稽な世界で、一瞬でも平気になる瞬間を、私としては愛したいとも思うのです。


