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鈴木涼美 青年の傷つきとコンプレックスを過剰に強調する"ジャック語"を味わう(ジャン・コクトー『大胯びらき』を読む)

第12回 基本的には他人事でしかない男の青春(ジャン・コクトー『大胯びらき』)
鈴木涼美

少年期と青年期の間の大きな距離

 男の混乱や自尊心に触れて、それを面倒くさいと一蹴したくなる時、私は彼らの内面的葛藤を、「ジャック語」と勝手に私が呼んでいる語彙で、やはり勝手にアテレコして味わうようにしています。ジャックとはジャン・コクトー『大胯びらき』の主人公ジャック・フォレスチエのことで、ジャック語は正確にいうとジャックを説明するコクトーの文体のことです。「自己の属する階級精神に反抗するという幼稚な優越感を軽蔑して、ジャックはそのまま自分の属する階級精神を遵奉していたが、そのやり方があんまり変っていたので、彼と同じ階級の者には、それが自分たちの階級精神だとは気がつかなかった」と、のっけからややこしく説明されるジャックは、完全に大人の男になってしまう手前にいる若い男です。前衛芸術が栄えたパリで一際存在感を放っていたであろう詩人コクトーの手数の多い文体のこの小説は、日本では翻訳を担った澁澤龍彦の代表的な仕事として取り上げられることも多く、大学の学部生の頃、長らく私が「一番好きな海外文学は」と聞かれて答える作品でした。青春小説といえばこれ、と考える人も多いかもしれませんが、正確には男の青春小説です。

 大胯びらき(Le Grand Ecart)とは舞踏用語で、跨が床に着くまで両脚を広げることで、本作では少年期と青年期の間の大きな距離(Le Grand Ecart)を指し示していると一般的には説明されます。女の青春小説がこのタイトルだったら、ものすごく性に解放的な若い女性がM字開脚で夜毎男に跨っているような絵図が浮かびます。男の青春小説なので特にそんな直接的な胯びらきの意味があるわけではないのでしょうが、胯を開いたり閉じたりして生きる女の私からすると、少なくともその大胯で届くギリギリの大きな距離の間で、軋んで痛む胯をどうしても想像してしまいます。というわけで個人的には少年期と青年期の間の大きな距離を限界まで足を開いて超える最中の、キシキシと痛む胯のような過程と解釈しています。

青春とは死にぞこないの思想に至る過程

「ジャックは長い仮死の状態で生きている。自分が不安定な感じでいる。ふらふらしながら立っているより仕方がない。ほとんど坐ることもできないくらいである」と、大変不安定な青春の最中にいる若い男の存在をひたすら解説しようとするところから小説は紡がれていきます。母に連れられて少年期の終わりの頃をスイスやイタリアで過ごし、人の熱愛や死を見て「精神の遭遇する数々の危険」に直面してきた彼がパリで大学受験の準備をしながら下宿生活を始める。物語の大部分はこの下宿の期間中に展開します。他の下宿人もやはり若い男たちで、彼らとの関係があり、お節介な母との関係があり、宿主の妻との接近があり、今でいうパパ活嬢のような美しく罪悪感のない娘ジェルメーヌとの恋があり、死への誘惑があります。ハイライトは彼が自分と全く違った種類の人間であるジェルメーヌと特別な関係になり、そして彼女が彼の友人に心変わりしたことで破綻するという、単に男が一枚上手の女と運良く付き合えたけど割とすぐ振られた、という話なのですが、その過程はコクトーの妙なところから引っ張り出す言葉に溢れています。

「結局のところ、美というものを厳密に肉体的に解するならば、それはどこに行っても、自分の家にいるような尊大な様子をして、人の眼を惹くものである、ということができよう。追放の身のジャックは、そうした美しさを渇望する。それも、愛らしげのない美しさであれば、それだけ彼の心は動く。つねに傷つけられる運命の持ち主なのだ」なんて、傷つきとコンプレックスを過剰に強調する語彙は、私がジャック語と勝手に名付けるものですが、青春を解説せんとする男がどのように世界を見ているのか、と想像するのに足る道具となります。「われわれの人生の地図は折りたたまれているので、中をつらぬく一本の大きな道は、われわれには見ることができない。だから、地図が開かれてゆくにつれて、いつも新しい小さな道が現れてくるような気がする」「人間の心は肉体に閉じ込められて生きている。不安な衝動や激しい絶望が生ずる所以である。つねに豊かな富をもたらすことができるくせに、心は、自分を覆い包んでいるもののなすがままにされている」という、映画を撮ることもあったコクトーらしいゴリゴリした比喩は、小説の最大の魅力であると同時に、男が面倒くさくないわけがないという核心もついているように思えます。そしてその面倒臭さが、幾ばくかの死への憧れと、現実を生きる自分への自己嫌悪と関係しているらしいことも。

 小説の末尾にある一文「地上で生きるためには流行を追わねばならぬ、が、心はもはやそれに従わぬ」は数多く引用されて有名ですが、この死にぞこないの思想に至る過程が青春であり、至った後を大人と呼ぶのかもしれません。

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