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鈴木涼美 青年の傷つきとコンプレックスを過剰に強調する"ジャック語"を味わう(ジャン・コクトー『大胯びらき』を読む)

第12回 基本的には他人事でしかない男の青春(ジャン・コクトー『大胯びらき』)
鈴木涼美

一本調子に自由奔放なジェルメーヌ

 さて、ジャックの肖像をあらゆる絵の具で肉付けしていく作業に思える小説の中で、ジャックの次に幾度にも渡ってその性質を説明されるのは恋人のジェルメーヌです。「彼女は火を灰に埋めて、長持ちさせようなどとはしなかった。できるだけ激しく、できるだけ早く、彼女は燃え切ってしまうのだった」「あふれるばかりの愛撫を、素速く与えるのだった。それは花好きな人が花束を選ぶ贅沢に似ていた。花束が萎れたら、またほかのを買えばよろしい」とその恋愛体質を指摘されるジェルメーヌは、ジャックにとっては自分と真逆の、自分が持ち得ない性質を併せ持った、自分と世界の眼差し方が全く違う眩しい存在です。

 若き私はジャックを描く作者の多彩な言葉を愛し、ジェルメーヌを描く言葉にはドン引きしていました。そしてそのやや一本調子な言葉でジェルメーヌが説明されること自体が、大きくジャックのものの見え方と関係するとも思っています。

「私は自由なの、自由なの、自由なのよ」と彼女自身のセリフで解説されるように、不自由の身のジャックに対してジェルメーヌはどこまでも自由な存在なのです。「ばね仕掛や二重底を巧みにつかうこの手品師」である彼女は恋愛においてあらゆる面でジャックを翻弄する手練れで、ジャックは「彼は自分の恋人を通じてしか、物事を見ていなかった」という状態になるほど、彼女への好意と憧れに満ちています。ジャックだけではなく、彼女に関わる男はみんな惨めなものです。彼女の心変わりに焦って、フランス的エレガンスとはなんぞや、何ていう見当違いの説教を垂れたり、醜態を晒して凄んだりするわけです。彼女はローラースケート場で地球と一緒にぐるぐる止まることなく回っていて、男たちはその気高い彼女に近づこうとしては遠心力で振り落とされるような情けない存在です。

「つまり彼女のような女は、この世の一種族だと言うのである。うしろを振り向かない種族、苦しみ悩まず、愛しもせず、病気にもならない種族。ガラス族を截るダイヤモンドの種族」と、どこかで女性を、とりわけ自分が心惹かれる女性を崇高で自由で身軽で気高く、自分のような重苦しく汚く不自由な自我を持っていない存在のように描きたがる。大人になる前の男の面倒臭さに形があるとしたら、きっとその視点だろうと思うのです。そして死にぞこないの大人になったら今度は、その自由さをありのまま受け入れようなんていう懐の深さを見せてきます。パパ活相手のネストールは「そこが女だよ。そこがジェルメーヌだよ。まあ、僕は彼女を好きなようにやらせておこう」と広い心でジャックにマウントをとってきますが、そんな貧困な女像で投げやりに納得されても、と思うのです。こちらは、大人の男の面倒臭さと呼ぶべきでしょうか。

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