鈴木涼美 ルーズソックスを履いていない時の所在のなさは、ファンダメンタルで強くて重くて苦しいものだった(鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションて何?』を読む)
身体イメージを補うものとしてのファッション
今思えば、別に校内で気張った化粧やルーズソックスを履かなくても、放課後に先生の目を盗んでおめかしをして遊びに行けばいいし、もっと言えば休日や夏休みにいくらでもおしゃれのしようがあるように思えます。別に大人になれば誰に止められることなく頭髪なんて茶色でもピンクでも好きなように染められるわけで、たとえば私は今会社にすら所属していませんから髪の色が虹色だろうが真っ白だろうが特に支障はありませんが、結局地毛の黒色が落ち着くのでここのところ全く染めてすらいません。現に中学生の私に向かって、周囲の大人は、「化粧なんてしないほうが若いうちは可愛いよ」とか「大人になったらいくらでも自由にできるんだから」と口々に言っていたし、正直、今中学生に相談されたらつい私もそう言ってしまいたくなるかもしれません。
ただ、その頃の私にとって、茶髪にできないことや、ルーズソックスを履けないことは、仕方ないから代案で我慢するかと思えるような生やさしい制限ではありませんでした。中学に上がってルーズソックスにミニスカで地元の駅を歩いた時の万能感は、見慣れた景色を眩いものにするほどだったのに、規則のせいでルーズソックスを履かずに駅前に出てみると、自分があまりに無防備で、無力で、不恰好で、無様で、無価値に思えてきます。その感覚は、例えば今、口紅をつけ忘れてパーティーに行ったり、香水をつけ忘れてデートに行ったり、ピアスを付けずに大人数の前で喋ったりするときにそこはかとなく感じる不安な気持ちに似ていますが、もっとずっとファンダメンタルで強くて重くて苦しいものでした。
自分に絶対的な自信があれば、そんなことは感じないのかもしれないとも思います。確かに中学の時、同じくコギャルとして振る舞いたくてたまらないタイプの友人と、クラス一の美女でスタイル抜群の清楚な女の子について、「あれくらい可愛かったらピタックスで全然いけるわ」と噂した記憶も残っています。大女優さんやスーパーモデルがプライベートではラフな服を着ているのも不思議ではありません。でも、何も強いコンプレックスを感じているわけでなくとも、むしろ自分もそれなりにイケてるとギリギリ信じられるとしても、ルーズソックスを履いていない時の所在のなさというのは大人の今では正確に再現できないほど深刻なものでした。それくらい、未完成な身体を持つ思春期の女の子にとって、自分の身体イメージを補うファッションというのは、自分の形成に役立つものなのだと振り返りながら今、思います。