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鈴木涼美 ルーズソックスを履いていない時の所在のなさは、ファンダメンタルで強くて重くて苦しいものだった(鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションて何?』を読む)

第15回 それでもピンヒールは正義(鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションて何?』)
鈴木涼美

制服はひとの<存在>を<属性>に還元する

 本書の中で私が一番好きな表現は、著者が服の性格をふたつに分類し、「制度と寝る服」と「制度を侵犯する服」と呼ぶところです。自分の社会的な属性を構成する装置としての服がある一方、それを着くずしたり、わざといかがわしい格好やむさくるしい格好をするようなスキャンダラスな服がある。その関係を著者はこう解説します。「たいていの服というのは個人のイメージについての社会的な規範(行動様式、性別、性格、モラルなど)を縫いつけている。その着心地がわるくて、ぼくらはそれを勝手に着くずしてゆく。どこまでやれば他人が注目してくれるか、どこまでやれば社会の側からの厳しい抵抗にあうか、などといったことをからだで確認していくのだ」。

 中学生の私にとって、友人たちとの関係より重要だったルーズソックスがそうであったように、高校に入っても大学や会社に入っても、ファッションによる小さなレジスタンスというのは終わることはありませんでした。自由な校風の都心の高校に入ると、ルーズソックスや茶髪ではその場所の規範の着くずしにはならなくなってしまい、今の私が見ると完成されていてとても可愛いはずの指定の制服をわざわざ壊し、ラルフローレンのセーターや別の男子校の学生カバンを身につけるようになりました。そんなに着くずすなら、最初から私服の学校に行けばいいのかというと必ずしもそうではなく、制服のない都立高の生徒は私たちの学校の制服をわざわざ頼んできたりもするし、私たち自身も学校の外で遊ぶ放課後に私服に着替えるのはお酒を飲んだりクラブに行ったりするときだけで、着くずした制服を堂々と身につけて闊歩するのが重要だったりもしました。著者が指摘するように、自分が何者かわかっていない私たちにとって、制服は自分らの「等身大」を示唆し、身体のイメージを補助する重要なものでありながら、その「等身大」が気に食わなくて、あえて抵抗を目に見える形でさらけ出す過程が重要だったのかもしれません。

「制服はひとの<存在>を<属性>に還元する」という言葉通り、自分の属性に与えられた服は時には心地よく自分を定義してくれるし、良い具合に自分をその後ろに隠してくれるし、自分の属性こそ自分の自尊心の拠り所なんていうときは最大限にそれを強固なものにまで押し上げてくれます。CAになった友人がかつてその制服に並々ならぬ愛着とプライドを持っていたように、あるいは女子高生が着くずしながらも制服を手放さないように、強烈なレッテルはひとまず自分に輪郭を与えてくれるからです。そんな態度はいかにも短絡的で依存的、自信のなさの表れであると同時に自分を矮小化する狡いものでもあるように感じられるかもしれませんが、その中に高揚や刺激があるのも事実だし、私はあえてレッテル貼りを恐れないような時間、或いはそれに頼ってなんとか立っていられるような不甲斐ない時間が、誰にでも必ずあるとも感じます。

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