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鈴木涼美 ルーズソックスを履いていない時の所在のなさは、ファンダメンタルで強くて重くて苦しいものだった(鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションて何?』を読む)

第15回 それでもピンヒールは正義(鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションて何?』)
鈴木涼美

服を選ぶことにどんな意味があるのか

 私が親に買い与えられる服とは別の衣服を身に纏いたいと考えるようになったのはおそらく英国に住んでいた小学校高学年の頃で、最初は当時子供の間で流行していたガールズ・デュオのShampooや、英国の小学生に人気だったドラマに登場する女の子たちの服装に影響され、世間が日本人のお嬢さんに期待するのとは違う、もっと不良っぽくて親の言うことを聞かなそうで、脚やおへそを露出する服を着出した頃でした。小学校6年生になって地元の鎌倉に戻ってからは、より一層、求められるイメージを外すような服を選ぶようになりました。ちょうどその頃に筑摩書房のシリーズ・プリマーブックスとして出版されたのが、鷲田清一の『ちぐはぐな身体』です。

 自分にとってあまりに身近な自分の身体が、実際は「ぼくらにとって想像以上に遠く隔たったもの」で、自分が知覚できる自分の身体が常に部分的でしかない以上、「ぼくの身体とはぼくが想像するもの、つまり<像>でしかありえない」という前提からスタートするこの本を、私自身が手に取ったのはちょうどルーズソックスの取り締まりに揺れる中学生だった頃でした。哲学者である著者が高校生のカップルに語りかけるところを想像しながら紡いだ、としているだけに、誰にとってもとてもわかりやすく、人にとって服を着るとは、ファッションとは、そしてそれを纏う身体とは何かが解説されます。今回、文庫版を改めて購入して驚いたのですが、2005年に発売された文庫版が2021年4月には21刷として発行されており、改めて多くの人にとって、服を選ぶこと、どんなファッションを身につけるかということが、自分にとってどんな意味があるのかというのは興味の中心なのだと感じます。

 確かに、これまで私自身が生きてきて、どんな年齢の時でも、周囲の女の子たちの収入における被服費や化粧品代の占める割合は大層なものだったし、教科書や小説を年に一度も開かない女性であっても、逆にドイツ語の社会学者の本をすらすら読む女学生であっても、ファッション雑誌を読んだことがないという人はほとんど会ったことがありません。若い頃の写真など見返して、恥ずかしいなと思うのは身体や顔の未発達よりも好んできたファッションのせいだったり、その時は気に入っていたメイクやヘアスタイルだったりすることが多く、その割には、自分がどうして若い時にこういうファッションを好んだのか、とか、なぜ最近着たいと思う服がないのか、と考え出すとよくわからないことが多いのです。私も、自分がどうして靴下の制限ひとつで面倒くさい受験勉強へと突き動かされるのか、どうしてピタックスで横浜駅前に立つと不安で倒れそうになるのか、当時はよくわかっていませんでした。

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