鈴木涼美 無駄を排除し、意味のある行動で全ての時間を埋め尽くしたその先に待つもの(ミヒャエル・エンデ『モモ』を読む)
空っぽを許容できるコップを持っていた
でも私が怪しいビルの中で合法薬物に詳しいくだらない男とつるんでいた時間を、資料の読み込みと分析に割いていた同じゼミの同級生と比べて、私の方が「豊富」であるものなんて何もなかったと思うのです。あるいは自分が修論の脚注を作っていた2ヵ月と、SMビデオの撮影で宙吊りにされて水をぶっかけられたり、その後に生乾きの髪のまま既婚者の何かの選手と待ち合わせしたりしていた2ヵ月を比べて、後者の方に豊富にあるものなんて別にありませんでした。経験豊富なあなたの知見から、なんて言葉を使われる時、多くの人は後者を経験と呼んでいるのでしょうが、どちらかといえば前者の方が現在の知見の実にはなっている気もします。だから私は、人が私の経験と呼ぶものなんて実際は清々しいほど空っぽだったなという気分で生きていて、それ故に経験豊富という言葉にある種の浅はかを感じるわけです。
だからと言って私は、与えられた若い時間をゼミの発表だけに費やせばよかったとか、海外のクラブに遠征なんてしないで日比谷図書館の蔵書を片っ端から読んでいればよかったとか思っているわけでもないし、勿論、もっともっと「経験豊富」になるべく、異文化のセックス交流やより細分化されたマニア向けポルノ出演に励めば良かったなんてことも思っていません。空っぽな時間はそれはそれでとても尊いものだし、空っぽな時間をふんだんに散りばめた私の若さは良質な青春でした。別に不特定多数の人とセックスしたってせいぜい世の中には色々な形の性器があるとわかるくらいだし、お酒を飲まなければ絶対に行かない怪しいパーティーに行ったって記憶すら無くすので何も残りません。でも、意味のあることをしなきゃと焦っていたら、あんなところへは行けなかったと思うと、私は空っぽを許容できるコップを持っていて幸運だったと感じます。
そういう時間の感覚を、私は『モモ』からとても幼い時に学びました。正確には、幼い時にはそこに描かれる「時間」に対して簡単なイメージが浮かぶ程度だったのを、高校の時に何かの予感とともに読み返して、ある意味では過剰に習得し、若干間違った方向にも発展させたとも言えます。その予感とは、あの本に書いてあったようなことは、これから荒々しい十代と二十代を生き抜く際に、きっと私には心地よく似合っていて尚且つ重要な感覚になりそう、というものでした。「時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした」(p95)というリズムの良い一文が、記憶に残っていたのです。