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鈴木涼美 無駄を排除し、意味のある行動で全ての時間を埋め尽くしたその先に待つもの(ミヒャエル・エンデ『モモ』を読む)

第18回 若さも90年代も空っぽだったと皆言うけれど(ミヒャエル・エンデ『モモ』)
鈴木涼美

「時間を感じとるために心というものがある」

 私たちの生きる世界では「灰色の男たち」の言うことは大変怪しいわけで、倹約した時間を貯蓄しておいて、後でそれを引き出してもっと別の人間になるために有効活用するなんてできる気がしません。倹約しようがしまいが1日は24時間だし1週間は7日だし、できるのはせいぜい料理する時間を15分短くして、その分ゆっくり喋りながら食事をする、勉強するはずだった時間を省略してキャバクラの同伴に出かける、という程度です。大都会のはずれにやってきたモモの魅力に心を奪われていた読者にとって、「灰色の男たち」の所業は許しがたく、愉快だった街の人々の変容は悲痛で、すっかり変わった彼らの様子はあまりに惨めで魅力がなく、退屈で悲惨に思えます。なんでこんなトンデモ系の怪しい提案に乗って、楽しかった生活をわざわざつまらないものにしてしまったのかと怒り、その変化を心底悲しみます。

 しかし、「灰色の男たち」に取り込まれた大都会の住民たちの変化を読み進めれば、その姿はいずれも、どこかで見聞きしたことのあるものだと誰しもが気づくのです。ゆっくり喋りながらではなく、事務的に効率よく仕事を済ませ、親を施設に放り込み、カフェテリア式のファーストフードで食事を済ませ、テレビやラジオでは、時間のかからない新しい文明の利器の良さを強調し、あらゆる広告が「きみの生活をゆたかにするために――時間を節約しよう!」と呼びかけます。都会は真夜中にも眠らなくなり、職場には「時は金なり」の標語が掲げられ、喧嘩したり落胆したりしながらものんびり回復して日常を送っていた人々は、怒りっぽく、落ち着きのない人に様変わりしてしまいました。当然、モモに話を聞きにくる人もいなくなり、時間がたって「灰色の男たち」が時間節約を説くのが難しい子どもたちの管理までできるようになってしまうと、円形劇場に遊びに来ていた子どもは管理してくれる施設に通うようになっていきます。

 私は大人になる直前にこの物語を再び読んでみた時、物語の中で否定的に描かれる効率主義や無駄の排除を拡大解釈して、ちょっと流石に無駄の多すぎる若い時間を過ごしてしまった自覚はあります。大量にあった圧倒的に暇で自由な時間で大量の無駄なお金を稼ぎ、それを一気に使い切ってはまた次の日に稼ぐ、なんていうことは別にしなくてもよかったような気もします。生産性の観点からすれば無意味で無駄に思えることを過度に排除した人間がどんな風に見えるかを諷刺的に描写する物語は、別にマリファナでも吸ってダラダラ意味のないことだけをして死んでいくべきだとか、生産的な行為を放棄しろだとかいう極端な思想を提案しているのではなく、時間についての私たちの感覚を問い直そうとしているわけです。忙しない日常の中で人は、少なくとも私は、時刻についてはしょっちゅう気にしているけれど、時間そのものについて考えることなんてほとんどないので、「時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです」「人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ」という、この児童文学作家の描いた言葉に考え込んでしまうのです。「灰色の男たち」に唯一対峙できる存在であるモモが、世界を救えるように導いてくれる「マイスター」は、人々にその人だけの時間をくばる、つまり時間の源泉を司る存在ですが、彼がモモに与えるヒントの中には大人になってしまった私がギクッとすることがいくつかあります。「死を恐れないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ」「でも人間はいっこうに耳をかたむける気にならないらしい。死をこわがらせるような話のほうを信じたがるようだね」

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