小林「武蔵」の「放言」と、大岡「老兵」の復員(上)

【連載第四回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

埴谷×大岡、小林への愛憎が噴出

埴谷 「新日本文学」では小林秀雄も火野葦平も入れた戦争責任者のリストをつくったよ。

大岡 小林秀雄で思い出したけれども、「近代文学」が小林を呼んでやった座談会のときのあとで物議をかもした台詞があるだろう。自分は黙って事件[事変]に処した、利口なやつはたんと後悔[反省]すればいい、というやつ。

埴谷 ああ、それは、小林さんは座談会のときは言ってなくて、あとで書いたものなんだよ。だいたい小林さんは座談会の原稿は全部書き直して、はじめの言葉は一つもないくらいだよ。(略)

大岡 おれは小林秀雄の直弟子だから、おれもむろんモロに直す。しゃべって一つのアイデアを出しておいて、それを手を入れるときに広げたりするわけだから、雑誌のほうだって、そのほうがいいと思うよ。考えを深めるわけだからね。(略)しかし小林の「黙って事件[事変]に処した」はあまりあてにならないな。黙って事件に処してはいないよ、あいつ(笑)。

埴谷 そりゃ、いろいろ書いてるよ。

大岡 論文は『無常といふ事』なのだが、座談会では日米けんかしたらむろん勝つさ、なんていっている。研究者が掘り出してくるからな」

 この対談は、最晩年の小林が入院中の時期に行なわれ、発表されている。小林の弟子にして最大の批判者である大岡と、ドストエフスキイを挟んで相対峙していた埴谷、二人の巨頭の小林への愛憎が噴出する対談である。小田切秀雄が座談会で持ち出せなかった「E・H・カー問題」という爆弾も、もとはといえば埴谷が提起していた案件だった。これについては、埴谷は『二つの同時代史』で弁明的に喋っているが、昭和二十三年(一九四八)の時点で、本多が『小林秀雄論』に長々と「付記」を書き、事情を説明した。小林が「爆弾」に気づいた上で、座談会に臨んだかどうかはわからない。ことは小林の代表作『ドストエフスキイの生活』(創元社)に関わる。本多は「付記」で書く。

「『ドストエフスキイの生活』については、水野明善が「東京民報」(一九四八・一・三一)に「不快な話――小林秀雄と『近代文学』」という一文を発表し、この書は小林秀雄の創造物ではなく、「英国のカーという人が一九三二年かに出版した書物からのヒョーセツである」とか、「ヒョーセツどころのさわぎではない、完全な翻訳だ、しかも、いいつらの皮にも、誤訳さえある翻訳だそうだ」とかいうを紹介して以来、一しきり種本問題が論議された」

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