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単行本『無常といふ事』がやっと出る(二)

【連載第十二回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

最初の書評は東大仏文の後輩・中村光夫

 それでも無事に『無常といふ事』は出た。調べた限りでの最初の書評は出版の四ヶ月半後となる。小林の東大仏文の後輩でもある中村光夫が「日本読書新聞」(昭和21710

に書いた「詩人・小林秀雄論」だ。「小林秀雄氏は批評家というよりもむしろ詩人だと僕はかねてから思っているが、今度「無常といふ事」を読み、特にその感を深くした」と始まる。これは「世間普通に云われる意味の批評文」ではない、「独自の散文詩」なのだと。ここで中村は雑誌に発表された時の、二人の恩師である辰野隆の感想を紹介する。「小林君は近頃日本の古典のことを書いているが、ああいう文章はボオドレエルを読み、チボオデエを読み、ヴァレリイを読んだ者でなければ書けぬ文章だ」。中村は辰野の言に同感し、さらに論を進める。

「氏の文学者としての出発があのユニックなランボオ論であったことを忘れてはならないのである。そして十八歳で詩神に訣別したランボオと「廿二で歌を紛失した」実朝とは、少なくも氏にとっては相呼び交わす二つの同質の魂なのではなかろうか。(略)おそらく氏にとって彼等の生きる形を見究めることは、彼等の裡に生きる欲求とわかち難いのである。(略)僕は「実朝」を読み「ランボオ」論を読み返し、この二十年の歳月を距てた二つの論文が全く同じ発想に基いて書かれているのに或る感慨を覚えずにいられなかった。「人の心は老いるものではない。」とフロオベルは云ったが、詩人とは結局その魂に或る悲しい若さを失わぬ者の謂なのではなかろうか」(中村『《論考》小林秀雄』に所収)

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