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単行本『無常といふ事』がやっと出る(二)

【連載第十二回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

荒正人にとっては『無情といふ事』?

 筑摩書房の月刊誌「展望」の編集長・臼井吉見は自誌の「展望」(昭和219)に五ページの書評を書いた。紙不足の中の薄い雑誌での五ページである。臼井は「この戦争中、著者自身の思想がどんな形をとっていたか、本書はこれを明白に語っている」とし、「氏は窮極に於て平家物語の叙事詩的精神とは無縁であり、西行実朝に氏が見出した孤独の精神こそ氏に最も親近なものであろうか」とした。

 雑誌で一番力を入れているのは、意外なことに「近代文学」だった。意外ではないかもしれない。十月号で四ページ、十一・十二月合併号で八ページと続けてとり上げている。十月号では同人の山室静と荒正人、それに若手の中田耕治の三人が書評を競作している。「戦争文学」と題した荒の書評が歪んでいて面白い。まずは、初出との異同を意地悪く調べ上げる。

「僕は、室町時代にのめり込む、□在[現世]の無情[無常]と信仰の永遠とを聊かも疑わなかったあの健全な沈着な時代の空気のなかに」(初出)

「室町時代という、現世の無情[無常]と信仰の永遠とを聊かも疑わなかったあの健全な時代を、史家は乱世と呼んで安心している」(単行本)

「当麻」のこの記述を、前者は「太平洋戦争という、いわば夜の光のもとでかかれた」が、後者は「敗戦後の昼の光で(したた)められた」とする。その違いを味わえということのようだ。戦時下を文字通り、息苦しい「地獄の季節」として生きた者の怨みを込めて書かれている。結論近くにこうある。

「火野葦平以下の「聖戦」文学は知らず。もし戦争文学というものが日本にもありとすれば、それは『無情といふ事』一冊だけであろう。それは観念ではなく、実感の自分に文学的に忠実であったひとりの詩人批評家のいたいたしい傷魂に咲いた一輪の不幸な花である」

 荒にとって『無常といふ事』は『無情といふ事』と読み替えられている。「無情」は四度出てくる。どうも単純な誤植ではなく、確信犯的な誤字なのだ。次号の小田切秀雄は、ほぼ小林の兼好法師像批判に費やされる。「小林自身の顔付がまがいようもなくはっきりと浮び上っている」、「小林自身が、いわばむき出しな形で語られているだけだ」と。その例証を厭わず出すためにページが費やされる。座談会の場で小林の気迫に撥ねつけられた苦い記憶があるためか、小林へのリベンジといった調子だ。

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