イタリアにおける感染拡大、その医療体制と国民性 ~日伊・国際電話で交わした夫婦の議論~
楽観していた日々が一転
横浜に寄港していたダイヤモンド・プリンセス号での感染者増加への懸念が少しずつ高まりつつあった二月十日、私はレオナルド・ダ・ヴィンチ没後五〇〇年に関わるテレビの取材で、日本からイタリアのミラノへと向かった。その時点では欧州での感染者の報告はまだ出ておらず、制作サイドは撮影には支障がないと判断していたし、私もこのウイルスについては、現代医療や政府の組織力で近いうちに抑えられるものだろうと楽観していた。
しかし、我々の搭乗機は悪天候の影響で、経由地であるロンドンへの着陸を断念。イギリスのヒースローを目指していたフライトは、急遽、ドイツのミュンヘン空港に行き先を変更することになった。ミュンヘン空港には、ほかにも目的地に着陸できなかったフライトが一斉に集まってしまい、行き先の変更を余儀なくされた大勢の客によって大混乱状態に陥っていた。入国審査では数え切れない乗客たちの長蛇の列ができていたが、中には激しく咳き込んでいたり、血の気のない顔をして椅子に座り込んでいる人もいる。その光景を見たとき、私の中で初めて新型コロナウイルス感染への不安が芽生えた。
実はその取材が終わったら、私はイタリアのパドヴァの我が家にいったん戻ろうかと考えていたのだが、学校の教師をしている夫から「COVID-19は自覚症状がなくても感染している場合がある。万が一を考慮したほうがいい」と忠告され、大げさだと思いつつも諦めることにした。しかし、そんな空港の有り様を見ているうちに、夫のリスク回避の考慮が一気に現実味を増した。
ようやくたどり着いたミラノの空港の通関ゲートでは、数人の係員が搭乗客を一人ずつ止めては額に赤外線体温計をあてていた。そのために出口がボトルネックとなり、先になかなか進めなかった。まだその時点では感染者の報告は無かったが、事態を見越した慎重さがうかがえた。イタリアでは感染症に対して神経質な人が多いことを踏まえると、そのような空港での念入りな水際対策も不思議ではなかった。
例えば私の義母は、毎年インフルエンザの流行にいち早く備えようとしており、流行の兆しが見えると、家族分のワクチンを薬局から調達してきて、「備えあれば憂いなし」と皆で接種する。日本人が普段しているようなマスクがイタリアで普及しない理由のひとつにワクチン接種が手軽にできる安心感も関係しているのかもしれない。
ミラノやロンドンでの滞在中は、周りから心配されたような東洋人差別に遭うことはなかったし、現地のニュースでも、中国・武漢の感染拡大や、日本に寄港しているクルーズ船について、決して最優先で扱われているわけではなかった。対岸の火事とまではいわずとも、自分たちの国で感染者が出ないうちは、それくらいのスタンスで良かったのだろう。
ところが日本に帰国して間もなく、事態は一変した。つい先日まで訪れていたミラノを州都とするロンバルディア州のコドーニョで、最初の新型コロナウイルスの感染者が見つかり、その翌日には我が家のあるパドヴァ県で、感染による最初の死亡者が出たと報道されたのだ。
イタリアは一気に緊張感を高めた。二日後にはパドヴァの大学も含む教育機関全てがたちまち閉鎖。中国からのフライトを受け入れない措置が取られ、スーパーマーケットに買い物に出た夫から、ビニールの手袋を付けた手で商品を棚から取っている写真と、普段はマスクなどすることのないイタリアの子供達が、マスク姿で道を歩いている写真が送られてきた。イタリア国内での感染者数はロンバルディア州やヴェネト州、そしてエミリア・ロマーニャ州など北部を中心に日に日に増えていき、北部イタリアの各都市ではロックダウンを実施。迷彩服を着た軍隊と警察官があらゆる道に配置された。夫は同じヴェネト州内の四〇キロ離れた街にある両親の家へ行くことも叶わなくなった。
ヴェネツィアではちょうどカーニヴァルが始まったばかりだったが、大きな観光収入をもたらすこの伝統行事の実施も、不満に思う観光客や地元の人々の声に耳を貸す間もなく、瞬く間に中止となった。普段の観光客の絶えることのないヴェネツィアのサン・マルコ広場からも、ミラノのドゥオーモ広場からも人影が消え、イタリアの新聞の一面に、無数の鳩と数人の兵士だけが写っている珍しい写真が掲げられた。
イタリア北部の経済的特性
最初の感染者が見つかって以来、北部イタリアを中心として感染拡大に歯止めがかからなくなった要因について様々な臆測が行き交った。ミラノやヴェネツィアを訪れる中国人観光客が感染媒介の中心になったのではないかという噂もあったが、私は当初からそうは感じていなかった。
コドーニョでのイタリア最初の感染確認者は、ビジネスで中国を訪れていた帰国者と、その人の濃厚接触者から感染したとされた。イタリア北部のロンバルディア、ヴェネト、エミリア・ロマーニャといった六州には、イタリア全二〇州の経済の半分を支える中小企業や工場が集中しており、経済において、中国との関わりが他のイタリアの地域に比べて圧倒的に多い。
ヴェネト州で私の知り合いが経営する自動車部品工場も、親族が先祖代々営むセラミック工場も、経済的な利便性を理由に数年前にイタリアから中国に生産拠点を移していた。北部にはそのような会社が多く、近年イタリアと中国を往復する経営者や労働者は著しく増加していた。イタリアには現在三〇万人と言われる中国人が暮らし、その大半は北部に集中している。ヴェネツィアでもミラノでもフィレンツェでも、中国人がイタリア人から買い取って経営しているカフェや飲食店が少なくない。遡ればトウ小平の時代から、イタリア経済が脆弱になっていくにつれ、中国からの入国者も増え続けてきた。北部に集中して感染者が増えた理由には、そうした中国依存型の経済が大きく関係している。
世界中での深刻な感染拡大
メディアで新型コロナウイルスの感染が報道された直後、イタリアでは一旦、日本と同じようなクラスター防止策が取られていたが、間も無く大規模なPCR検査が一斉に実施され、わずかながらでも不安を感じた人々は皆病院に駆け込むようになった。そして、それが後の医療崩壊へとつながっていった。
"無意識の感染媒体"というCOVID-19の厄介な性質が一般の人たちにも認識されるころ、イタリアでは既に悲惨な事態が頻発しており、無意識に自分がウイルスを移してしまった父親がたちまち重症化して死んでしまったと、悲しみ悔やむ入院中の息子の映像が何度も流れていた。
容赦無く感染死亡者数が増えていく中、ロンバルディア州に次いで感染者の多いヴェネト州の病院で介護士をしている夫の従兄弟も感染した。幸い重症では無かったそうだが、電話越しに様子を伝える家族の声にはただならぬ緊迫感があった。
海外では、日本におけるPCR検査実施数の少なさなどを含めた対策や、報告される感染者数及び死亡者数の抑制された数値に、メディアが注視し始めた。長い歴史から得た教訓で、どんな詳細で説得力のある情報であろうと鵜呑みに信じることはせず、自分の頭で分析し疑念を投じるのがイタリア人である。私と夫の電話も、日本とイタリアの事態への対策や受け止め方、そしてお互いの緊張感の温度差を巡って、喧嘩のような会話になる回数が日に日に増えていった。ずいぶん早い段階で、このウイルスの性質を通常の風邪やインフルエンザと同じだと言った私の言葉を「経済を止めないために、そう思い込まされているようにも感じる」と勘ぐった。
東京オリンピックの延期が決まる以前、海外の報道では、日本のPCR検査の抑制は、大会の実施を考慮したものではないかという疑念の声が少なくなかった。一方イタリアでは、驚異的な経済的ダメージと、その後の想像を絶する後始末への懸念を抱えながらも、余計な躊躇はせず都市閉鎖を実施した。それゆえに、イタリア人には、日本政府が緊急事態宣言で唱えた"自粛"という意味がのみ込めない。夫には、日本の憲法上、緊急事態とはいえ命令というかたちでの強制権はなく、ロックダウンをしても政府は外出禁止令を出すことはないだろうと言うと、「行動の判断も責任も国民が個人で持てという意味なのか」と問われ、自粛とはそういう意味だと不安気味に返す。
確かに、欧米の首相のように切迫した事態を人々に強く訴えかけ、激励し、苦境と向き合う姿勢を求めようとする演説には、聴く人の緊迫感を高める効果があるが、雄弁さを指導者に求めているわけでもない日本では、メディアを介して錯綜する情報から、それぞれがすがるべき言葉を探し出すしかない。
ただ、いくら首相が責任感に満ちた力強い演説を行っても、安置場所を確保できないいくつもの棺を、イタリア軍のトラックが街の外へ運び出す映像は世界中を震え上がらせたし、何より医療崩壊については、イタリア国民も目を逸らすことのできない大問題ではあった。その話題を振れば夫も押し黙る。
ドイツでの感染による死者は、皆ICUのベッドで亡くなっているのに対して、イタリアではICUどころか病床にも就けず、ましてや人工呼吸器など目にすることもなく亡くなる重症者であふれた。そして、最初はイタリアだけが向き合っていたこの問題が、間もなくスペインやイギリス、アメリカへと波及することになる。
国内で最もたくさんの感染者と死者を出しているベルガモ市では、感染の有無を確かめられぬまま自宅で重症化して死亡するというケースも多発した。イタリア全国における三~四月期の全体死亡者数を前年度の数値と対比した結果、実際の感染死者数現状よりも二万人増とする報告もある。
かつては世界第二位とされていたイタリアの医療だったが、世界金融危機の際にEUから財政規律を課され、財政赤字と巨額累積責務を減らすために医療費が削減された。それによって病床数は減らされ、早期退職と給与削減を促された医師たちの中には海外に出ていく人も増加した。私はかつてイタリアで三度ほど入院した経験があるが、そのうち二回は一般の病室に空きがなく、廊下にベッドを設えられた。イタリアでの医療崩壊の根本的要因はそういった既存の問題点に紐付けられる。
医療全体に不安材料を抱えながらのPCR検査の一斉実施も、莫大な財政危機を懸念する余地もなく実行に移されたロックダウンや経済活動の抑制も、日本の政府が下してきた判断とは大きく違うが、「人の命が先に守られなければ、優先されなければ、先には進めない」と言い切るイタリアの家族の言葉越しに、彼らの倫理観がキリスト教によって象られていることを痛感せざるをえなかった。たくさんの感染死者を出してしまったのも、希望者全てに対する検査が先決という判断がもたらした結果だったとも言えるし、スペインもおそらくそれと同質の理由が起因で死者数が増えてしまったのではないかと思う。
イタリアの国民性
イタリアの高齢者数は第一位の日本に次ぐ高さだが、夫の実家でも、かつて百歳近い老人二人が、老衰で亡くなるまで同居をしていた。それもまたキリスト教の倫理観が根付いた社会の傾向であり、よって老人介護施設は日本のようには普及しない。年寄りは無条件で敬われ、家族に守られて当然の存在なので、三世代で高齢者と一緒に暮らす世帯が珍しくないが、そんな家族構成もCOVID-19というウイルスには好都合だった。小さな孫は学校から戻ると祖父母にハグをして頬にキスをする。食事の場では老人たちも一緒にテーブルを囲んで、皆盛んにおしゃべりをする。その家族の中にひとりでも感染者がいた場合、どのような顛末を導くことになるのか。そんな一般的なイタリアの家族の様子を思い浮かべるだけで、辛い気持ちになる。
前述したように、イタリアではマスクの着用が普及してこなかった。うちの子供もかつて日本から持ってきたマスクをつけて登校をしたところ、直ちに担任の教師から「恐ろしい疫病でもあるまいし、皆が嫌な気持ちになるからすぐに外しなさい。風邪くらいで大げさだ」と指示されたことがある。 イタリアでは過去のパンデミックの恐怖が様々な形で今に伝承されているが、我が家の場合は、自分の父親を感染症で亡くした祖母が、第一次世界大戦後に流行ったこの疫病による惨憺たる有様をうろ覚えながらも語り続けていた。その当時に撮影されたマスク姿の人々の写真には、異常事態下の不安と恐怖が映し出されている。つまり、マスクは物騒で不穏な記憶を呼び覚ます疫病の象徴として捉えられてきたと言っていい。ワクチン接種が頻繁であること、喋りにくい、表情が見えないといった違和感だけではなく、百年前から受け継がれてきた疫病のトラウマも、彼らがマスクを嫌厭する理由になっていると考えられる。 先日イタリアの街頭でインタビューを受けた女性は「自由を拘束する忌々しいマスクを早く外したい、こんな不吉なものは二度と付けたくない」と心境を語っていた。
イタリアでの感染率の高さの要因を、こうした日常生活のレベルで考察してみると、思い当たる事柄はいろいろある。 だが、満身創痍になりながらも苦境を乗り切ろうとしている彼らの中には、これまでの歴史で積み重ねられてきたパンデミックの経験が息づいている。感染症の恐ろしさについては国語や歴史の授業でも学ぶし、美術館で見かける恐ろしい死神の形で表された黒死病の地獄絵図を見た人は大人でも震え上がるだろう。学校の教育や日々の生活で感染症への警戒心を煽られることは滅多にない私たち日本人との受け止め方の差異は明確だ。
パンデミックとは、それまでの自分たちの社会のあり方や人間としての脆弱さを冷静に見改める希有な機会だと言えるが、情報に翻弄されない模索や疑念を含む想像力の駆使は、いったん終息の気配を見せているこれからも間違いなく必要だ。 果たして私たちは新たなる感染拡大の可能性に対して緊張感を維持していけるのか、各国政府が打ち出す対策や姿勢はこれからもしばらく比較されていくことになるだろう。そして、そこから得られるデータは、自国を正当化したり自負や安堵を高める為にではなく、情報に翻弄されない個人の思考力や判断力を鍛えるための手がかりと捉えていきたい。
(『中央公論』2020年6月号を一部加筆修正)