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コロナ禍と教育格差:ICT活用後進国ニッポンの大問題

松岡亮二

文・松岡亮二(早稲田大学准教授)

 コロナ禍を契機にオンライン学習の導入が叫ばれたり、九月入学導入論が巻き起こったりした。コロナ禍の前から教育格差の存在が指摘されてきたが、はたしてこれらの新しい取り組みは格差を是正するのだろうか。新書大賞2020で第三位となった『教育格差』を執筆した松岡亮二氏が分析する(以下は、月刊『中央公論』2020年7月号より。九月入学論についての分析は割愛し、ICT教育についての部分を抜粋した)。

「緩やかな身分社会」

 新学期を迎えるはずだった四月以降、休校の有無や、休校時の情報通信技術(ICT)活用が教師・学校・自治体・公私立によって異なることが「教育格差」として報道されるようになった。  まず言葉を定義しよう。本人が変更できない初期条件である出身家庭や出身地域などの「生まれ」によって、学力や学歴など教育成果に差があることを「教育格差」という。もし「生まれ」と教育成果に何の関連もなければ、それは(教育格差がない)公平な状態といえる。

 前近代の士農工商のような世襲の身分制度は撤廃されて久しいし、義務教育があるので、建前としてはすべての人に平等な機会が与えられていることになっている。しかし、拙著『教育格差』(ちくま新書)にデータを示したように、恵まれた「生まれ」であると大卒になる傾向がある。この「生まれ」と教育成果である最終学歴の関連は、格差が指摘されるようになった二〇〇〇年代以降だけではなく、戦後に育ったすべての世代・性別において実証的に確認されている。また、大卒者は正規雇用を得て収入も高い傾向がある。このように最終学歴によって処遇が異なることを「学歴格差」という。  日本は、「生まれ」によって学歴達成が異なる「教育格差社会」であり、学歴によって享受できる社会的便益に差がある「学歴(格差)社会」である。「生まれ」が本人の教育達成を介して成人後の人生を制約している以上、戦後日本は「緩やかな身分社会」といえる。


 コロナ禍で増幅した教育機会格差  日本の義務教育制度は他国と比べて標準化されていて、同じ機会を提供する努力が行われてきた。教室で教員免許を持つ教師が学習指導要領に沿った教科書を用いて授業することについては、国内どこであっても変わらない。教育の場所や内容といった主要な構成要素が標準化されていることで、同じような機会が付与されているという見做しが成立してきたといえる。

 しかし、コロナ禍による休校という緊急事態にあっては、教師・学校・自治体などが自分たちで判断しなければならないことが増え、オンライン授業、配付する宿題の量と質、電話での声掛けなど、教育実践がばらつくことになった。公立であっても校長・教育長・首長などのリーダーシップによって様々な対応を打ち出す事例も出てきた。

 休校で教育実践の差が増幅したことで見えやすくなったわけだが、以前から家庭と学校(地域)によって教育機会と結果の差が存在してきたことを強調したい。拙著『教育格差』で多角的にデータを示したように、「生まれ」によって(平均的に)子供の学校外時間の過ごし方は大きく違うし、公立小学校間であっても様々な格差がある。議論すべきはコロナ禍で格差が拡大したか否かである。

休校で教育格差は拡大するのか

 では、休校によって「生まれ」と教育成果の関連は強まるのだろうか。この問いに対してヒントになるのは、「ゆとり教育」によって土曜日を休みにした影響を検討した研究だ。経済的・文化的・社会的な資源量の多寡を一つの数値にした社会経済的地位(Socioeconomic status、以下SES)によって、学習時間と学力の格差が拡大したことがわかっている。また、別の研究は「ゆとり教育」によって高収入世帯がより通塾と習い事に投資したことを明らかにしている。

 家庭のSESによって子育てパターンが異なる傾向があるので、休校に伴い学校の授業日という全員に対する標準化された介入がなくなり時間が「自由」になった分、学習努力・学力・教育サービス利用の差が広がっても不思議ではない。拙著『教育格差』で日本のデータによって描いたように「意図的養育」をする高SES層の親は子の生活時間を上手く組み立てるだろうし、積極的にオンライン授業を行う私立校生なら休校の負の影響をさほど受けていない可能性がある。専業主婦や在宅勤務が可能なホワイトカラーであれば家庭で直接子供の学習を手助けし、話し相手になることもできる。さらに、この層は塾・予備校や習い事を利用する傾向にある。オンライン授業や電話を通して親と学校教師以外の大人から気にかけられているのは、このような教育サービスの利用者だ。大卒の親から日々有形無形の支援を受ける高SES層の子供たちは、すでに学習動機を持ち大学進学を前提としている傾向にあるので、むしろ休校によって学校という枠から解き放たれ、集団教育よりも高度な学習に没頭し、「優秀さ」を追求しているかもしれない。

 一方、親が在宅勤務できず、公立校から紙の宿題が配付されるだけで教育サービスも受けていない低SES層であれば、子供が一日中スマートフォンやゲーム漬けになっていても驚きはない。家庭のSESによって子供の食事にも違いがあるだろう。  学校や地域単位の差についてはやや複雑な様相だ。高SES層は職業選択などによって三大都市圏や大都市部に居住する傾向がある。これらの地域の教育熱は高く、教育産業も発達し、役割モデルとなる大学生やホワイトカラー職も身近だ。こうした地域に居住していることは教育達成に有利な条件であるが、コロナ禍が(一時)終息し全国の学校が再開する日が来るとして、そのときまでの日数をすべて足し上げると休校期間が最も長い地域になると考えられるので、従来不利である地方のほうがコロナ禍の影響は小さいかもしれない。ただ、同じ地域であっても休校の効果は家庭のSESによって一様とは考えられない。最も教育的刺激が少なく学習習慣や学力を得ることができないのは、休校期間が長引く大都市部に住む低SES層だろう。

他国とのICT環境格差は縮小へ

 科学技術立国を自称する日本の教育ICT環境は、先進国の中で最低水準だ。事実、OECDによる十五歳(日本では高校一年生)を対象とした調査(PISA)によれば、家に「勉強に使えるコンピュータ」と「インターネット接続回線」が両方ともある日本の十五歳の割合は六〇%に過ぎない。OECD加盟国の平均値は八九%だ(二〇一八年調査の結果)。その上、ICT環境が充実している他の先進国と同様、国内における格差もある。PISAの結果によれば、高SES家庭のほうが充実したICT環境を持つ傾向にある。出身家庭のSES別に見ると上位層(上位四分の一)では七九%、下位層(下位四分の一)だと三八%と過半数を下回る。

 学力・大学進学期待・学歴達成の観点で日本は「凡庸な教育格差社会」であることを拙著『教育格差』で示したが、ICT環境についても同様だ。学力については国際的に全体の水準(平均値)が高く、平均的な度合いのSES格差があるのだが、ICT普及度については全体的に低く、他国と同程度のSES格差があるので二重苦である。

 学校のICT環境・活用も低調だ。コロナ禍への対策をまとめたOECDの報告書によれば、日本は先進国のみならず調査対象の七九の国・地域の中で、四項目(教師のICT利用技能・教師のICT利用授業への十分な準備時間・教師向けICT学習資源・学校における十分なICTスタッフの有無)では最下位、他の全八項目もOECD加盟国平均より低い(すべてPISA二〇一八年調査に基づく)。

 文部科学省は以前からICT活用の旗を振っていたが、多くの自治体で導入が進まなかったため、中央集権的な決定と予算措置によって「GIGAスクール構想」を実施することになった。この学校のネット回線と一人一台端末の全国画一的な導入という文部科学省お得意の標準化政策が前倒しされることになったので、他の先進国との間にあるICT環境格差は縮小するだろう。ただし、配付された端末を子供が自宅で利用できても、課題は山積している。

 まず、オンライン授業に参加できる高速ネット回線が家庭にない生徒が低SES層に多いことは変わらない。たとえICT環境が通信機器配付と通信費無料などによって整ったところで、家で机と静かに勉強できる場所があるかどうかにはSESによる格差がある(SES上位層で九一%・下位層七三%)。さらに、一人一台端末配付は義務教育が対象だ。高校のICT活用は全体的に低調なので、コロナ禍によってオンライン教育を行う際には、各家庭の資源に依存することになる。二〇二〇年度の高校三年生が一年生のときの調査(PISA二〇一八)のデータを分析すると、「勉強に使えるコンピュータ」「インターネット接続回線」「静かに勉強できる場所」の三つが家庭にある生徒は全体の五五%で、各高校の生徒の所持率を算出すると二一~九四%と学校間で大きな差がある(平均五三%・標準偏差一四%)。高SES家庭が高校受験までに高い学力を身につけ高ランク校に通っているので、オンライン教育に適した条件の家庭間格差は、学校SES(生徒のSESの学校平均)・学校ランク(生徒の学力の学校平均)と無関係ではない。即ち、高ランク校は高SES校であり、そのような進学校の生徒は家庭にオンライン教育を受ける条件がある傾向なのだ。高ランク校・高SES校の教師は、生徒の大半がパソコンなどを所持している前提でライブ双方向授業を行ったり課題を出したりできるが、低ランク校・低SES校では、普及率の高い生徒のスマートフォン頼みになるだろう。画面が小さい端末のみという条件では、対面授業の代わりをオンライン向けに準備する教師にとっても、学習する生徒にとっても、相当に困難ではないだろうか。

 さらに、端末と通信回線が整備されても、ICT活用後進国である日本の教師がすぐに有効に使えるようになるわけではない。文部科学省が教員に対し効率的なICT活用法の研修と時間的余裕を付与すべきだろう。これを契機に、教師の献身的な長時間労働に頼るのを止め、情報伝達を主とする講義は既製の動画を利用し、個別的な質疑応答や学習の進捗状況の確認に特化するなど、教師の役割をICTで代替不可能な領域に重点化することを提案したい。

ICT活用でも格差は縮小しがたい

 ICT活用が一気に普及したとして、休校で拡大したであろう教育格差を縮小させることはできるだろうか。休校時にICTが助けになることは確実だが、格差の縮小までは期待できそうにない。オンラインは対面による教育の代替にはならないのだ。

 大学生を対象としたアメリカの研究結果によると、対面の代わりのオンライン授業だと平均成績と卒業率が低下する。インターネットによって教育機会・情報へのアクセスの地域格差が減ったことは間違いないが、そのまま自動的に結果につながるわけではないのだ。「ゆとり教育」で土曜日が休みになって学習時間・学力・教育サービス利用の格差が拡大したように、学習動機の獲得しやすさも含め、有形無形の資源量が多い高SES層にとって有利であることに変わりはないと考えられる。

 今後もICT活用を進めるべきだが、高SES層が便利なツールを駆使して学習する以上、学校で標準的に教えられる活用法の恩恵を受けつつも低SES層が追いつくことは難しいだろう。教育格差は複雑かつ根深い現象なのだ。

コロナ禍の影響を検証するために

 日本の教育行政の伝統芸は「改革のやりっ放し」である。たとえるなら、医者が診察・血液検査もせずに主観的な思い込みで病名を断定し、何となく良さそうな投薬・手術を(「平等」の名の下に)全員に対して行うが、経過観察により治療効果を確認することはない。データで現状を把握した上で課題に適した政策・実践を行い、効果を測定して少しでも結果を向上させるために微調整を繰り返すことをしてこなかったのである。

 普段からまっとうなデータを取得していないので、コロナ禍によって、どんな「生まれ」の子供にどのような不利益があったのか明らかにするには工夫がいる。アメリカでは、二〇〇五年のハリケーン・カトリーナによって引っ越しを余儀なくされた子供を追跡した研究が発表されている。被災前のデータがあることによって、天変地異による被害を明らかにできるのだ。

 日本でも近年は地方自治体や研究者グループの努力によって、全国規模ではないが学力を含む同一の子供を追跡するパネル調査も出てきている。その代表例は本誌二〇一九年五月号で解説されている「埼玉県学力・学習状況調査」である(政令指定都市であるさいたま市を除く)。この同じ子供を追跡し学年間で学力が比較可能な調査を分析すれば、コロナ禍前と比べて「生まれ」による学力格差がさらに拡大しているかどうかがわかるはずだ。

 ただ、現状は親を対象とした調査がないため、家庭の文化資源量(本の冊数)や通塾の有無といった限定的な指標による確認に留まる。今からでも親に対する調査を行い、どの層が最も休校の被害を受けたのか検証すべきだ。特に低SES層は親が失職したり生活のために労働時間を増やしたりすることで、子供の家庭生活に影響を与えうる変化(収入、親本人のストレス状態、子供と過ごす時間など)を余儀なくされている可能性が高い。休校と家庭の経済状態の悪化はほぼ同時期に起きていると考えられるので、これらを切り分けて分析するためにも、親を対象とした調査は不可欠だ。また、休校期間中の在宅学習の課題やオンライン利用の有無などを把握できる教員調査があれば、どのような教育実践が休校期間中でも学力を向上させられたのか明らかにできる。さらには、都市部の学力変化と天変地異の影響を今後検証できるようにするために、さいたま市も調査に参加すべきである。

 また、PISAとTIMSS(国際数学・理科教育動向調査)といった国際学力比較調査でも、その傾向がわかるだろう。前者は三年おき、後者は四年おきに実施されてきたので、以前の調査結果と比べてSESによって学力格差が拡大しているかがわかる。コロナ禍による休校期間は国によって大きく違うので、国際比較研究の結果も発表されることになるだろう。これらの調査の実施はまだ先であるし、分析結果が出るまで数年は待たなければならない。ただ、これまでの研究知見から推測するに、学校という標準化された教育介入がなければ、SESによる差が拡大しても不思議ではない。換言すれば、学校があることで一定程度に抑えられていた「生まれ」による教育成果の格差は拡大するだろう。以前から子供たちは無限の可能性という血を日々流してきた。コロナ禍の休校によって、特に低SES層の出血量がさらに増えていることが懸念される。

(中略)

「やった感」はもういらない

 休校によって家庭間・学校間など以前から存在する様々なコロナ禍前格差が増幅され、誰の目にも明らかになった。学校が再開されれば、以前のように形式的な機会が「保障」されることで見えづらくなるだろうが、それは格差がなくなることを意味しない。「生まれ」によって多くの子供たちの無限の可能性が大きく制限されてきたのが戦後日本社会の実態であり、決して「今までのやり方でまわってきた」わけではないのだ。教育関係者の尽力は疑わないが、その「肌感覚」による教育行政と実践についての、実証的な「答え合わせ」の結果が、子供たちの無限の可能性という血が流されてきた「教育格差社会」であり「緩やかな身分社会」の維持である。無論、「答え合わせ」の責任は教育だけが負うものではないが、教育にはもっとすべきこともできたこともあったはずだ。この現実と向き合わず、「今までのやり方」の学校教育を維持するのであれば、これまでと同程度の「生まれ」による教育成果の格差になるだろう。行政が短・中期的なデータを積極的に取得せず、教育投資を増やさないまま、この現状を「世の中そんなものだ」と追認するのであれば、教育制度は「教育格差社会」と「緩やかな身分社会」を維持する装置に過ぎないと宣言しているに等しい。

 データを取得せず実態が可視化されていないからこそ、行政や学校が成果を出さなくても、個人の見聞に基づく解釈でどのような教育の現状であっても「そういうもの」と追認されてきた。今後は「改革」や教育実践の「やった感」の演出ではなく、実際に結果を出すことにこだわるべきだ。私たちにできることは派手ではないが明確だ。(1)行政と学校現場が先行研究に基づいた上で格差を縮小しながら子供たちの無限の可能性を具現化するための教育実践を計画、(2)小規模の効果検証、(3)効果のあった実践の全国展開だ。そして、この研究と実践のサイクルをまわすために必要な人員と予算の確保が必要である。また、「生まれ」による「教育格差」を縮小するためには、「同じ処遇」では足りない。低SES層に対して追加的に資源を配分し、実際にどれだけ伸びたかデータで明らかにすべきだ。内実のない政治的煙幕として利用されるような「やった感」ではなく、実際に子供たちの認知・非認知能力の向上という結果を出そう。

 すぐにできるのは、コロナ禍を奇貨としてICT活用による効率的なデータ取得を進めることだ。普段から子供と学校単位でデータを蓄積していれば、教育で不利な社会経済的に困難な家庭と地域がわかるわけで、緊急時の資源の追加投入に優先順位をつけることができる。一人一台端末配付も、本来は低SES地域から優先することが望ましい。量的に一度に追加配分できない場合は、低SES地域の中からランダムに選んで、支給時期をずらせば効果を測定することもできる。教員加配や退職者を再雇用しての追加派遣も同様だ。  これまでのように、ICTを活用せず教員の献身的な長時間労働による総力戦を続けたところで、国際的に「凡庸な教育格差社会」を何とか維持することにしかならない。もう子供たちが無限の可能性を追求できていない現状を解釈で追認するのは止めよう。「今までのやり方」では不十分であったデータが示す実態と向き合おう。現状の追認は現実主義でも「いい大人」の振る舞いでもない。単に虚無の胃袋の中に落ちているだけだ。予算増も含め、私たちは子供たちのためにできることをすべてしてきたのだろうか? 答えは明快にNОである。違う制度と教育実践の在り方があるはずなのだ。私たちにはもっとできることがあるはずなのだ。子供たちが無限の可能性を追求できる社会にするために、まず、私たち大人自身にもっとできることがあると信じてみようではないか。

松岡亮二
〔まつおかりょうじ〕 ハワイ州立大学マノア校教育学部博士課程教育政策学専攻修了。博士(教育学)。日本教育社会学会・国際活動奨励賞(2015年度)、早稲田大学ティーチングアワード(15年度春学期、18年度秋学期)、東京大学社会科学研究所附属社会調査データアーカイブ研究センター優秀論文賞(18年度)を受賞。主著に『教育格差』(ちくま新書)。