「九月入学」推計作業を通して見えた教育政策の不毛

相澤真一(上智大学准教授)

注目を集めた推計作業

 四月二十八日、全国一七県の知事らがオンライン会議で「九月入学」の導入を含めた検討を政府に要請するメッセージをまとめた。さらに、翌日、安倍首相が「前広に」という表現で選択肢として検討すると述べた。そこから約一ヵ月の検討を経て、九月入学の導入が見送られたことは記憶に新しい。

 筆者は、五月の一ヵ月間に、本政策に関する推計に携わった。これは省庁などから依頼されたものではなく、苅谷剛彦オックスフォード大学教授の呼びかけに集まった研究者グループで独自に手がけたものだ。舞台裏を明かせば、そもそもICTや教育格差に関するデータ分析を進めていこうかと議論をしていた矢先、九月入学の議論が浮上したため、急遽取り組むことにした次第である。

 我々のスタンスは、九月入学への賛否はさておき、具体的な数字をもって、この政策のインパクトを推定することであった。そこでまず政府統計の集められている「e-Stat」(統計で見る日本、https://www.e-stat.go.jp/)を通じて、学校基本調査や地方教育費調査のデータを収集し始めた。

 この調査で明らかになった「一斉移行方式」(二〇二一年度に一七ヵ月分の児童を一斉に九月入学に移行する方式)の場合のポイントを、以下に挙げておく。

・導入すれば、初年度に小学校の教員不足は二万人を超える。

・政府が検討している案では、保育所または学童保育の待機児童が数十万人規模で発生する。

・国や地方自治体に、教員給与などで二〇〇〇億円前後の追加支出が生じる。

 最初にこうした推計の数字が算出でき始めた頃、正直なところ「このような粗い推計でよいのか」という不安があった。だが、ゴールデンウイーク中に始めた推計がその翌週末はおおむねまとまり、五月十七日付の『朝日新聞』に第一報が載るや否や取材対応に追われることとなった。そこで初めて、「この程度の推計すら誰もやっていない」事実に気づかされた。その間に専門家からも各種のご指摘を頂き、短期間でできる範囲で修正を行い、五月二十五日に「改訂版(暫定)」、六月四日に「改訂版(確定)」を発表した。この間、すぐさま集計された数字を記事にしようと待ち構えられることもあり、その緊張感は名状しがたいものがあった。

 このプロセスを経るなかで、日本の教育政策を構想するためには、どういう文脈(コンテキスト)を踏まえるべきかが見えてきた。それらを示すことが本論の目的である。具体的には、①政策立案をめぐる文脈、②政策を政治にする文脈、③教育格差と平等をめぐる文脈、そして、④少子化に関する文脈の四つである。

データを活用できない政策立案現場

 第一に、政策立案をめぐる文脈である。近年、実証に基づいた政策立案(EBPM)の重要性が指摘されるようになったものの、今回の推計に携わり、EBPMがほとんど機能していない実状を目の当たりにした。本研究チームの推計値が唯一の総合的な推計資料として、マスメディアに取り上げられただけでなく、政策関係者さえ我々に問い合わせてきた。驚くほど基本的な問題点の確認も行われずに政策が進められようとしているリスクがはっきりとわかった瞬間である。共に推計に携わった岡本尚也氏も同様に警鐘を鳴らしている(「『わかりやすさ』偏重が招くウィズコロナの教育格差」『先端教育』二〇二〇年八月号所収)。

 実は、根拠や推計の曖昧な政策立案プロセスの歴史は長い。既に、教育経済学者の矢野眞和氏は、戦後の教育に関する答申を検討した上で、文部省内で分析能力が蓄積された世代と蓄積されなくなった世代との交替が一九七五年前後に起きたと指摘する。

「その後の実証分析の欠如は、教育と経済の関係領域だけではない。現状の理解が衰退すると、そのときどきの教育世論に教育政策が振り回されることになる。現在の教育改革は、こうした雰囲気の中にある」と矢野氏は述べる(『教育社会の設計』東京大学出版会、二〇〇一年)。

 矢野氏が高く評価する一九七一年の四六答申から五〇年近く、矢野氏の著作から二〇年近くを経ても、この現状は変わっていない 。

 推計作業をするなかで、文部科学省(以下、文科省)の統計調査と厚生労働省(以下、厚労省)の統計調査を総合的に考えて政策を立案する部署が存在しないことも目の当たりにした。教育・保育分野以外の方にはあまり知られていないかもしれないが、教育分野において、文科省と厚労省の管轄は複雑に入り組んでいる。就学前教育では幼稚園は文科省、保育所は厚労省、小学校は文科省、放課後の学童保育は厚労省の管轄である。我々は報告書で、九月入学を実施する場合、その方式によって小学校教員数の不足と保育所の待機児童の問題がバーターに近い関係になることを明らかにしてきたものの、このような文科省管轄のデータと厚労省管轄のデータを組み合わせた総合的な政策立案はなかなか行われていないことを痛感した。

 また、近年の各国のEBPMでは、繰り返し調査による効果測定が常識となっている。ところが、日本の官庁統計は、個人はおろか、学校・施設や市町村といった単位でさえ経年変化を分析できるような形では存在していない。

 文科省も厚労省も、従来の基盤統計に加えて、優れた調査を実施し始めているにもかかわらず、数年で入れ替わる人事異動により、これらの統計データは単年度の基本的な集計にとどまっているのだ。苅谷剛彦氏も述べているように、「ビッグデータはすでにある。ただ、それらがバラバラに存在し、有効に関連付けられていない」(「ビッグデータ不在の教育行政」『週刊東洋経済』二〇二〇年七月十一日号所収)のである。

 残念ながら、今、我々の前にあるのは、データを抜きにした曖昧な政策立案の五〇年に及ぶ歴史的文脈である。これを変えていくためには、専門家は一つ一つの政策に、我々が行ったように、数値を出して推計を提示していく形で監視することが必要だ。そして、専門家以外の方々は、自分にとってかかわりのある政策について、情報を集め、推計が用意されていなければ政策立案側に用意するように、声をあげていくしかないであろう。

 九月入学をめぐる一ヵ月の議論は、あまりにも曖昧な政策立案プロセスに一石を投じるものであったと思う。

「レガシー」を求めたがる政治に注意

 第二に、政策を政治にする文脈について、取り上げたい。九月入学の議論において強く感じたことは、わかりやすい教育政策の結果を「レガシー」としたがる政治力学である。竹中平蔵氏の「9月入学の成果、教育改革を安倍内閣のレガシー(遺産)にすればいい」(「経済プレミア」二〇二〇年五月二十七日、https://maini
chi.jp/premier/business/articles/20
200525/biz/00m/020/011000c)という言葉に端的に表現されるように、政治家は自身の「レガシー」を求めたがる。特に教育は他の分野に比べて、政策によって大きく害を被る人がいないと考えられがちなため、政治家が「レガシー」としたがる動きが顕著になる。第一の文脈で述べた世論に振り回された教育政策(policy)は、政治(politics)として実行されるにあたり、より単純な言葉に変換される。

 五月初めに議論され始めた九月入学は、まさに「レガシー」作りの文脈にあふれていた。学校開始年度を九月にするためには、数多くの制度変更が迫られる。報道にもあるように、少なくとも三三本の法律改正が必要であると見積もられていた。

 しかしながら、法律の中身を変えること自体は、官僚および対応する現場の膨大な労働を顧みなければ、まさに法律の条文のなかに、そして歴史に日時と名前を残す「レガシー」となる。法律の変更自体が、政治家の実績となるのだ。そのため、経済政策よりも利害関係の認識しづらい教育政策では、法律の変更という手段が、「レガシー」として目的化しやすい。

 さらに、政策が政治になり、それが政策として実施される際には、明確な「数」が答えとして独り歩きしやすい。この点で、現在、急速に進む学校におけるICTの環境整備は注視しなければならない。公立の小中学校、高等学校におけるオンライン授業の実施率は、文科省が今年四月に自治体を対象にして行った調査によって五%と算出された。これを受けて、小中学校で一人一台の端末を配布するGIGAスクール構想の実現が加速した。確かに国際的に見て日本は、ICTを「文具」として活用することにおいて極端に遅れを取っており、その動き自体は間違っていない。しかしながら、「小中学校で一人一台」という数値目標の達成が目的化し始めていることに強い危惧を覚える。

 GIGAスクール構想を実質的なものにするためには、例えば、日本のICTの利活用の遅れを明らかにしてきたPISA(OECD〔経済協力開発機構〕が十五歳を対象に三年ごとに行う生徒の学習到達度調査)の項目のうち、「学校のウェブサイトから資料をダウンロードしたり、アップロードしたり、ブラウザを使ったりする」「校内のウェブサイトを見て、学校からのお知らせを確認する」といった実質的な活用を示す項目での改善がなされなければ意味がない。

 日本の学校現場におけるICT活用は、実はこのような「レガシー」にしたがるわかりやすい政治の積み重ねの歴史でもある。

 ここで簡単に振り返ると、国際化と多様化を強く指向する一九八〇年代の臨時教育審議会の答申の影響を強く受け、九三年より施行された中学校学習指導要領の技術・家庭科において、「情報基礎」領域の学習が中学校のカリキュラムに含まれるようになった。九〇年代当初、教育用コンピュータ整備費補助予算もつき、全国各地でコンピュータ教室の整備が進ん。結果として、ハード面では、二〇〇六年の国際比較調査において、日本の学校のコンピュータ施設の整備は進んでいたことが明らかにされてい。

 しかしながら、現在、国際的に見た場合に指摘されるような遅れは、既に二〇〇九年のPISA調査にはっきりと表れている。つまり、ハードを導入すること自体が数値目標化してきた一方で、それを活用することに全く目を向けてこなかった政治の結果が、現在の学校におけるICT活用の遅れとして現れているのだ。このように、政策が政治になる時には、我々は何が単純化させられているのかを注視する必要がある。

(以下略)

 〔『中央公論』2020年9月号より改題して抜粋〕

相澤真一(上智大学准教授)
〔あいざわしんいち〕
1979年長崎県生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業、東京大学大学院教育学研究科博士課程修了、博士(教育学)。成蹊大学アジア太平洋研究センター特別研究員、中京大学現代社会学部准教授などを経て現職。専門は教育社会学、社会調査、比較歴史社会学。共著に『〈高卒当然社会〉の戦後史』『子どもと貧困の戦後史』など。
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