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死者と共に在るわたしたち

山折哲雄(宗教学者)×若松英輔(批評家)

見えないものは「実在」する

若松 東日本大震災の後、生や死を見つめ直す気運が高まり、宗教への関心が高まってきた、と言われるようになりました。しかし、私は本当にそうだろうかと疑問に思います。たとえば、被災者の苦しみに届かない言葉が繰り返され、支援についても、見えるもの、可視的な世界での行為に限定されているようです。そこには「死者」の存在という視点が決定的に欠けています。宗教者たちでさえ、あたかも死者がいないかのような発言や活動を続けています。

山折 私は震災のひと月半後に被災地へ行きました。東松島、石巻、気仙沼......。現場はまさに地獄の様相を呈していました。遺族の方々は、なぜ自分が生き残って、肉親、知人が波にさらわれたのか、為すところなく立ちすくんでいました。被災者の方々だけではありません。大方の日本人がそうだったでしょう。その状態で、死や死者を語ることができたでしょうか。
 一方、その頃から次第に、被災地における日本人の冷静な行動、思いやり、助け合いが報道されるようになりました。人間の絆は失われていなかった、との感慨を込めた報道が多かった。たしかにそうだったのかもしれません。しかし、死者と生き残った人間との絆は断ち切られたままでした。それをどのような言葉で語ればいいのか、私にもその余裕がありませんでしたし、わかりませんでした。
 私が被災地で感じたことはもう一つあります。遺体そのものを見たわけではありませんが、その臭いをかいだ時、私はここに死者がいる、と強く感じました。非業の死を遂げた人の遺体を想像することで、死者の実在を感じたのです。
「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」
 浮かんできたのは、『万葉集』の大伴家持の、この歌でした。私は敗戦の時、旧制中学二年でしたから、それまで毎日のように聞かされていた歌です。大伴家持は屍という言葉を発すると同時に、死者の魂をイメージすることができたのだと思います。万葉人はそういう世界に生きていたのです。現代の日本人の一人としての自分は、すでに魂の実在を信じていません。でも、死者の実在を感じた。これはどういう経験だと言えるのでしょうか。魂を信じることができなくなった自分、近代人、日本人とはいったい何なのでしょうか。

〔『中央公論』2013年1月号より〕