第4波襲来、「東京を捨てる日」がやって来る
東京一極集中の流れを解消しようと、国は地方移住に対する補助金を拡充し、人手不足に悩む地方自治体も移住者向けの独自の補助金を準備したり、国の「地域おこし協力隊」などの制度を利用したりして、移住者獲得に力を入れている。
ただ、移住は単なる引越しではない。生き方そのものが変わる。気軽に動ける人はそう多くはないかもしれない。
それでも、変異株が広がり、二度目の緊急事態宣言解除後ほどなく第4波の兆しが見える中、移住に向けて動き始めた人、移住を検討している人も少なくないだろう。
すでに東京圏から移住した人を訪ねた。
※本稿は、中公新書ラクレ『東京を捨てる コロナ移住のリアル』の一部を抜粋・再編集したものです。
息子が初めて星を見た
都内のベンチャー企業に勤める山本祐司さん(36歳)は、2020年8月に妻の未央さん(32歳)と息子(2歳)を連れ、東京都荒川区から家族で桐生市へ移住。水沼定住促進住宅に引っ越した。
4トントラックいっぱいに積んだ荷物を運び終えた頃には、辺りはすでに暗くなっていた。一息つこうと家を出ると、突然、息子が空を見上げて言った。
「大きなお星さま、あるねぇ」
東京で生まれ育った息子にとって、月を見たことはあっても、星は絵本の中でしか見たことがない。続けて息子は「きらきら星」を歌い出した。
「きらきらひかる お空の星よ まばたきしては みんなを見てる きらきらひかる お空の星よ」
その姿を見て、夫婦で泣きそうになったと祐司さんは振り返る。
「星が見える環境、それだけで移住してきて良かったなと初日から思えた体験でした」
自ら「ワーカーホリック」と話す祐司さんが移住を考え始めたきっかけは、新型コロナの感染拡大だ。安倍晋三前総理大臣は2020年3月13日に成立した新型コロナ対策の特別措置法に基づき、4月7日に東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に緊急事態宣言を行い、4月16日には対象を全国に拡大した。
緊急事態宣言の発令により、都内のベンチャー企業に勤めていた祐司さん、NPO法人の会計業務を担当していた未央さんも在宅勤務になった。息子が通っていた保育園も臨時休園となり、家族3人、ほぼ自宅を出ない生活が始まった。
高い家賃を払い続ける意味はない
山本さん一家は黒保根に来る以前、東京都荒川区内のタワーマンションの一室に住んでいた。家賃は現在より10 万円以上高く、広さは8割程度だ。緊急事態宣言の発令により、会社に行くことはなくなったが、夫婦ともにリモートワークで仕事は続けていた。
ふと、祐司さんのなかに生まれた疑問は、日に日に大きくなるばかりだった。
「このまま東京で家賃を払い続ける意味はあるのか?」
夫婦が仕事を続ける横で、子どもは終日、タブレットで動画を視聴している。自宅のなかで自由に遊ばせることはできない。上の階の部屋の子どもの足音が聞こえるたびに、息子の行動にも注意しなければと、不安になる。
同時に新たな疑問が生まれた。
「いったい、自分たちはどんな子育てをしたいのか?」
それは祐司さんだけではなく、未央さんも同じ思いだった。
夜な夜な夫婦で話し合い、結論はすぐに出た。
「息子には、自然の中で本物の生命に触れ、伸び伸びと成長して欲しい。東京から離れることへの不安はありましたが、自分たちも自然に囲まれたリモートワーク環境への興味がいつしか不安を上回っていました。メリット・デメリットを整理してもおそらく合理的な結論は出ないだろうと思いました」
勢いが大事、祐司さんは当時をそう振り返った。
東京からは離れられない
移住先は北関東に決めた。祐司さんは群馬県桐生市、未央さんは茨城県ひたちなか市の出身で、ともに実家は北関東にある。
「お互いの両親の老後のこともありますが、逆に困ったときには助けてもらえるし、孫の顔を見せに行くこともできます」
仕事の不安はなかった。未央さんはコロナ以前から在宅勤務が中心で、祐司さんが勤める地方自治体のインバウンド対策などのコンサルティング業務を行うベンチャー企業も、コロナ感染拡大後にオフィスを解約するなど、リモートワーク中心の働き方に移行していた。
それでも、本社機能は東京に残り、クライアントとの会議やセミナーなどで東京に行く機会があることは容易に想像がついた。移住先を北関東に選んだ理由には、東京から近いという理由もある。
「たとえ、ワクチンが開発されようとも、月に二度、三度は東京に行くことはあると思いました。地元ではボランティア的にプロボノ(自らの専門知識や保有しているスキルを社会貢献に活かす活動)を積極的にやっていきたいと考えています」
5月25日に緊急事態宣言が解除されると、6月には現在の住まいである水沼定住促進住宅へ見学に来た。
祐司さんは桐生市出身だが、実家から黒保根は車で1時間程度の距離にあり、地元という感じはしなかった。住宅は360度田んぼに囲まれ、背後には広大な赤城山がそそり立つ。いまだ入居者のいなかった定住促進住宅内に足を踏み入れると、広いキッチンがとても魅力的に見えた。平屋だから、以前のように上の階の物音を気にする必要もない。
ここに住もう。即決だった。
ベビーカーで移動する休日ストレスがない
黒保根に移住し、子育て環境は激変した。
息子は田んぼのカエルやトンボを追い回し、近隣農家の野菜の収穫を手伝う体験も喜んでする。家を囲む田んぼは季節ごとに色を変え、秋にはコシヒカリ「くろほの雫」が黄金色になり、頭を垂れる。その米農家から直接お米を買って、精米して食べる。
祐司さんは仕事の休憩がてら、田んぼのあぜ道を子どもとよく歩く。息子はすっかり田んぼのファンだ。
「お米ができて、おにぎりになるんだよね」
「お水で大きくなるんだよねぇ」
食育などといった安っぽい言葉ではない、本物の教育環境がある。
保育料を算定する所得基準が都道府県ごとに異なり、保育料は都内の保育園より約1万円上がったが、「高密」な都内の保育園とは違い、息子が通う黒保根保育園は息子を含め全学年で11名。園庭がとにかく広く、「都内の保育園の2、3倍はあると感じた」と祐司さんは話す。
「園庭の真ん中に大きくて急な坂があり、初めは転んだりしないのかなと不安でしたが、子どもたちは全力で駆け上がったり、シートを使って自然の滑り台として遊んだりしています。東京で通わせていた保育園には園庭がなく、近くの公園で遊んでいましたが、やはり安心して自由に遊べる場所があるのはありがたいですね。先生から聞いた話では、お友達はみな裸足で駆け回っていて、息子だけは慣れないうちは靴を履いていたそうです」
週末の外出が楽になった。車で1時間も走れば、ユニクロもニトリも、コストコだってある。東京に行く必要は感じない。何より、
「東京だと子どもをベビーカーに乗せ、電車の中でも周囲に気を使いながら、移動するだけで疲れてしまいます。地方は車社会だから、子どもが車内で叫ぼうが、暴れようが、気にすることはありません。買い物の荷物は玄関先まで車で運べます」
中学校には卓球部しかない
祐司さんは「勝手にグンマー移住大使」として、SNSを通じ、黒保根の生活を発信している。いつも、コメント欄には「羨ましい」といった言葉が並ぶ。
「住みたくなる話ばかりだから、そろそろつらい話をお願いします」
友人からは、そんなコメントも出る始末だ。
最寄りのスーパーまで車で15分かかるなどの不便はあるが、その代わり、地元の産直でいつも新鮮な野菜や果物を安価で手に入れることができる。どこへ行くにも車が必須となったが、先述の通り、週末の外出ストレスはなくなった。
ただ、いいことばかりではない。山本さん夫婦には、不安もある。
「子育て環境としては抜群ですが、小学校と中学校を合わせても生徒が54人しかいません。ある程度の人数がいないと、人との関わり方や、競争力がつかないかもしれないという不安はあります」
地元サッカークラブはあるが、中学に常設された部活動は卓球部しかない。高校、大学となると、自宅から通える学校の選択肢も狭まってくる。
それでも、今は、毎日元気に走り回る子どもの姿に満足だ。リモートワークで仕事を続け、祐司さんは月に2~4回、未央さんは月1回ほど東京に出る機会があるというが、大きな負担にはなっていない。
自宅から最寄りの東武鉄道「赤城」駅までは車で約20分。そこから有料特急「りょうもう」を利用すれば、約1時間40分で都内の北千住駅(東京都足立区)に着く。気になる交通費だが、赤城~北千住間で、乗車券と特急指定席券を合わせて片道2270円だ。毎日となれば高くつくが、月に数回程度なら都内で暮らした場合の通勤代とさほど変わりはないだろう。
「時間はかかりますが、都内の満員電車とは違い、必ず座れます。折りたたみテーブルにパソコンを置き、仕事も快適にできるので、時間は特に気になりません」
むしろ、違った環境で仕事に集中できる。そう、祐司さんは話した。
澤田晃宏
コロナ下で地方移住への関心が高まっている。コロナ流行後に東京から兵庫県淡路島に移住した著者が、コロナ移住者や移住支援機関、人気自治体を訪ね歩き、コロナ下の人の動きを徹底取材。注目を集める地域おこし協力隊や新規就農の実態もレポートする。田舎の生活費や補助金情報、空き家の探し方から中古車の選び方まで、地方移住に関する実用的な情報を網羅し、ガイドブックとしても読める1冊だ。