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日本になぜGAFAは生まれないのか?

田中邦裕さくらインターネット社長に訊く
若江雅子(読売新聞東京本社編集委員)
田中邦裕さくらインターネット社長
 今年5月に会計検査院が公表した政府情報システムに関する会計検査結果によると、2018年度に中央省庁が発注した競争契約の7割超は、1事業者しか入札に参加しない「一者応札」だったという。一者応札の割合は既存システムの改修案件ではさらに高くなり、94%を超えていた。
 検査結果は、政府のIT調達にはびこるベンダーロックインの現実を浮き彫りにしている。ベンダーロックインとは、過度にカスタマイズを重ねることで、開発したITベンダー以外が改修やメンテナンスを行えず、他社の参入を難しくすることを指し、調達費高騰の一因として批判されてきた。その多くはNTTデータやNEC、富士通、日立製作所など「ITゼネコン」と呼ばれる大手ベンダーやその子会社が受注してきたものだ。
「ソフトウェアはコピーすれば簡単に大量生産できます。にもかかわらず、わざわざ一件一件カスタマイズした割高なシステムを作り上げて売って回って、利益を上げようとする。要は、ソフトを売っているのではなく、ヒトとモノを売っている。ソフトウェア産業のような顔をしたモノづくり産業のままなんです」と厳しく指摘するのは、田中邦裕さくらインターネット社長だ。データとソフトの時代が到来したのに、モノづくりでの成功体験にしがみつき、そこから動こうとしなかった日本の産業政策や企業マインドこそが、デジタル敗戦の元凶となっている、とも田中社長は言う。『膨張GAFAとの闘い』の著者・若江雅子氏が田中社長に「日本になぜGAFAは生まれないのか」と尋ねてみた。

*この記事は中公新書ラクレ『膨張GAFAとの闘い――デジタル敗戦 霞が関は何をしてきたか』(若江雅子著)の一部を抜粋・再編集したものです。

ライブドア・ショック

「日本でGAFAが生まれないんじゃない。日本はGAFAになろうとする企業をポンポン潰してきただけですよ」

いつもの柔和な口調でこう話してくれたのは、データセンターやクラウドサービスなどを展開する東証一部上場企業「さくらインターネット」の社長、田中邦裕(43歳)だ。

 田中は京都の舞鶴工業高等専門学校に在学中の1996年に18歳でレンタルサーバ事業を始め、99年にさくらインターネットを設立した。マイクロソフトのビル・ゲイツ、FBのマーク・ザッカーバーグがともに19歳で起業したことを考えると、創業時、日本で一番GAFAに近い位置にいた男かもしれない。

 創業のきっかけは、高専の級友らに自分が立てたウェブサーバを貸してあげたことだったという。自分でサーバを立て、所属するロボコンサークルのホームページを作ったら、それがあまりに楽しいので周囲にもサイト作りを勧め、サーバを貸してあげたら「同級生の間にあっという間に広がった」。金を払ってでもサーバを借りたいという友人らの声を聞き、「これはビジネスになるな」と思ったのだ。

 90年代後半は、日本でIT業界が盛り上がりを見せ始めた時期だった。田中の創業と同じ96年には、ソフトバンクと米国ヤフーが合弁で日本法人のヤフーを設立。ホリエモンこと堀江貴文(48歳)がライブドアの前身、有限会社オン・ザ・エッヂを設立したのも96年だった。楽天は97年、サイバーエージェントは98年の創業である。

 だが、ITブームから25年。生き残ったのは数えるほどである。

「日本って、スタートアップが『GAFA』になろうとすると、なる前に潰そうとするんですよね」

 例として挙げるのが、堀江らが証券取引法違反容疑で逮捕され、その後実刑が確定したライブドア事件である。06年1月16日、ライブドア本社などが東京地検特捜部の捜索を受けると、株式市場は大きく下落した。いわゆるライブドア・ショックである。

 実は、さくらインターネットはその直前の05年10月に東証マザーズに上場を果たしたばかり。株価が大きく下落したため、その後に予定していた市場からの資金調達は難航した。07年に債務超過に陥る一因にもなった。何より痛手だったのは、国や大手企業がスタートアップ企業への発注を控えるようになったことだったという。「スタートアップ支援に一番必要なのは『売り上げ』なんですよ」。国などの公的機関や大企業からの仕事をとりつけられれば、信頼が増して事業展開していけるが、国や大企業はなかなかスタートアップに仕事をくれない。ライブドア事件以降、その壁はさらに厚くなった。

「事件を機に、日本のネットベンチャーの間で『目立っちゃいけないんだな』という意識が広がりましたね」とも振り返る。堀江は東京・六本木ヒルズにオフィスを構え、プロ野球への参入構想を打ち上げ、ニッポン放送株を大量取得して筆頭株主に躍り出るなど、既成秩序への「挑戦者」のイメージが強かっただけに、なおさらだった。

 最高裁まで争った堀江の有罪は11年に懲役2年6ヵ月で確定した。主な罪状は53億円の粉飾決算だった。同時期に約180億円の水増しが発覚した旧日興コーディアルグループが上場廃止を免れ、5億円の課徴金納付命令と、グループの社長と会長の引責辞任で終わっていることと比べ、バランスを欠くとの指摘も聞かれる。

「違法行為が罰せられるべきは当然のこと」と断りつつも、田中はため息をつく。伝統的な企業と新興企業では、日本社会は後者により厳しい。「米国では大きくなってから叩かれるが、日本では大きくなる前に叩かれて、潰されてしまう」。

ハードで勝って、ソフトで負ける

 日本の産業政策も改めて検証されるべきだろう。経済の新陳代謝を後押ししイノベーションの芽を育てるための政策的な対応は、なされてきたのか。むしろ、既存産業の保護に傾注するあまり、新産業の創出を怠ってきたのではないか―。

 ターニングポイントの年として、85年を挙げたい。日米貿易摩擦が問題となる中、コンピューターや周辺機器の関税撤廃が議論されるのと並行して、著作権法が改正され、コンピュータープログラムが著作物として保護対象となった年である。

 この頃、日本の対米輸出の黒字は増え続け、日本への市場開放圧力は牛肉、オレンジなどの農産品ばかりでなく、サービス・金融、先端産業など様々な分野に広がっていた。その中で、日本がむしろ積極的に輸入関税撤廃に動いたのが、コンピューターや周辺機器の分野だった。

「電子立国日本」としての自信が背景にあったのだろうか。当時、日本のコンピューターメーカーの対米輸出は伸び続け、日米貿易収支は82年に日本の「入超」から「出超」に逆転している。84年には日本側の黒字は20億ドルに拡大した。当時の通産省(現・経産省)も、輸入関税を撤廃しても影響は少ないと見た可能性はある。

 だが、ハードウェアの輸出超過だけ見て、日本のコンピューター産業が「強い」と思うのは早計だった。日本はハードウェアでは「出超」でも、ソフトウェアでは「入超」だったのである。当時はまだソフトウェアの輸入に関する統計はなかったが、日銀の「国際収支統計月報」によると84年度の日本の技術貿易収支は16億ドル強の赤字で、大半はソフトウェアだったと思われる。つまり、「モノ」として完成品のコンピューターを輸出していても、その中で動いているソフトウェアは米国からの輸入に頼っていたのが実情だった。にもかかわらず、「出超」の統計をもとに通商交渉にのぞんでいたのだ。

 結局、85年には、エレクトロニクス分野の日米次官級協議でコンピューター本体・部品を含めたエレクトロニクス製品全体の関税を日米で相互撤廃する方向で合意した。96年12月には日米欧など29の国と地域が情報技術協定(ITA)で半導体、コンピューターソフトなど約200品目を対象に97年7月から段階的に関税撤廃を実施することで合意している。

 これに並行して進んでいたのが、著作権法によるソフトウェア保護の動きだ。コンピュータープログラムの権利保護をめぐっては当初、通産省が「プログラム権法」の立法による保護を、文化庁が著作権法改正での対応を主張し、数年にわたり対立が続いたが、結局、著作権法上の著作物として保護することで決着がついた。これを強力に後押ししたのが米国だった。

 米国は通産省案に反発し、米国と同様の著作権によって対応するよう圧力をかけていた。通産省案は保護期間が15年程度で、著作権法による保護期間の50年より短く、そして裁定制度の導入によってプログラムのユーザーの利益保護にも配慮していたからだ。

 米国の戦略の背景にあったのは、有名な「ヤング・レポート」の提言だった。当時のレーガン政権下では83年6月、ヒューレット・パッカード社長のジョン・ヤングを委員長として「産業競争力に関する大統領委員会」が設置され、85年1月には米国の競争力強化のための33の提言がなされた。中心の一つが、知的財産権による戦略の強化だった。「米国の技術力は依然として世界の最高水準にある」のに、それが貿易に反映されないのは「各国の知的財産の保護が不十分だからである」として知財保護策を強化させようとしたのである。米国政権はこの問題を明確に意識した上で、実際に産業政策の中核として実行に移したのだった。

ソフトウェア「産業」かソフトウェア「製造業」か

 日本はどうだったか。著作権法を改正した時点で、これからはソフトウェアを押さえなければ、情報機器分野に勝機がないことは理解されていたはずだ。だが、実際の産業政策はそのようには動かなかった。

 製造業での成功体験が鮮明すぎて、「日本はものづくりの国」という意識を変えられなかったとはよく指摘されるところだ。田中も「いつまでもソフトウェアはモノを動かすためのオマケ、という意識が抜けなかった」と分析する。

 ソフトウェアなしにはコンピューターは動かない。しかも、ソフトウェアはオンラインで簡単に配布でき、一度開発すれば無限にコピーでき、著作権法で守られている。「限界費用が限りなくゼロに近くて、ものすごく効率がいい。だから、ソフトウェアを自社で持っている会社はうまくいきましたよね」。例えば独立系システムインテグレーターのオービックは自社開発の会計ソフトなどパッケージソフトが好調で、時価総額は1兆8000億円。これはNECより高い。

 田中はさらに厳しく指摘する。「日立、NEC、富士通は、ソフトウェア会社に転換すべきでした。転換できないなら潰れるべきだったんじゃないでしょうか」。

 ここまで言うのは、ITの主戦場がモノではなくソフトに移った後、ITベンダーがたどった道のりが、日本のITをとりまく環境を悪化させたという思いがあるからだ。

 90年代になって大量のエンジニアが余ったITベンダー会社は、いわゆる「人月商売」に手を染めた。SIer(エスアイアー)と呼ばれる、インフラ構築から機器の納入、その後の運用メンテナンスに至るまで一括受注するシステムインテグレーター化で、実際のプログラミングやテスト作業は中小のSIerに丸投げする、日本特有の業態が生み出されたのだ。

「ソフトウェアはコピーすれば簡単に大量生産できます。にもかかわらず、わざわざ一件一件カスタマイズした割高なシステムを作り上げて売って回って、利益を上げようとする。要は、ソフトを売っているのではなく、ヒトとモノを売っている。ソフトウェア産業のような顔をしたモノづくり産業のままなんです」

 政府にも、産業界に構造変革を迫らないまま、むしろ永らえさせるべく手助けしてきた罪があるだろう。年間2兆円に近い国や地方自治体のIT調達の多くは、ITゼネコンと化した大手ベンダー、NTT、日立、NEC、富士通などの各グループが受注しているのである。これがベンダーロックインを招き、割高な発注となっていることは度々問題とされてきた。21年9月にはデジタル庁が発足するが、田中のこの苦言をどう聞くか。

「ソフトウェア産業と、ソフトウェア製造業は全く違う商売。だが、日本ではソフトウェア製造業ばかりに金が集まるので、そこに安住し、本当のソフトウェア産業に生まれ変わろうとはしなかった。IT企業を名乗りながら、売っているのはモノと人。ソフトウェアは海外からの借りもののまま。これではいつまでもイノベーションは生まれない」

捨て身の発想

 田中には好きなエピソードがあるという。85年にインテルが日本企業のDRAM(半導体メモリの一種)の攻勢を受け、経営危機に陥った時の話だ。

 DRAMはインテルの創業初期からの主力製品で、インテルを世界的企業に成長させる原動力だった。それだけに経営陣の混乱と動揺は激しかったらしい。その時、社長だったアンディ・グローブは、「ムーアの法則」(半導体の集積率は18ヵ月で2倍になるという経験則)で知られるインテルの創業者で当時会長だったゴードン・ムーアに対し、「もし取締役会がわれわれを追い出し、新しい最高経営責任者を任命したら、その男はどうすると思うかい?」と尋ねたという。ムーアが「DRAMから撤退するだろうな」と答えると、グローブは「一度ドアの外に出て、戻ってこよう。そして、我々の手でそれをやろうじゃないか?」と説得し、DRAM市場からの撤退という大きな決断に至った―という話だ。

「データ時代の大きな社会構造の変革の中では、変化しなければ生き残れない」。IT分野の技術やサービス、そしてビジネスモデルは、どんどん変化していく。ものづくりの時代から、パソコンや携帯電話のブラウザが入口となるポータルサイトの時代、そしてアプリが入口となる時代に変わり、さらに新たなプラットフォームをベースとした新しい世界がやってくるだろう。

 一度死んだ気になって、新しい分野にチャレンジした結果が、今のCPU市場でのインテルの地位を築いた。日本もそれができるだろうか。

膨張GAFAとの闘い――デジタル敗戦 霞が関は何をしたのか

若江雅子

GAFAにデータと富が集中している。日本がそれを易々と許した一因に、にわかに信じがたい法制度の不備がある。国内企業に及ぶ規制が海外勢には及ばない「一国二制度」や、EUに比べて遥かに弱い競争法やプライバシー規制、イノベーションを阻害する時代遅れの業法……。霞が関周辺にはそれらに気づき、抗おうとした人々がいた。本書はその闘いの記録であり、また日本を一方的なデジタル敗戦に終わらせないための処方箋でもある。

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若江雅子(読売新聞東京本社編集委員)
東京都生まれ。青山学院大学国際政治経済学部国際政治学科卒。読売新聞入社後、北海道支社を経て、社会部記者として警視庁、公正取引委員会、農林水産省などを担当。2008年からIT問題を担当。14年より編集委員。19年に情報セキュリティ大学院大学で情報学修士修了。論文に「オンライン広告におけるトラッキングの現状とその法的考察―ビッグデータ時代のプライバシー問題にどう対応すべきか」(情報通信政策研究)。