90年代文化の特徴とは何だったのか? TVOD

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80年代と90年代を分かつもの

パンス それなら、その状況を雰囲気の問題で片づけるのではなく、できるだけ分解して考えていくのが僕は重要だと思うね。「比較的安定した社会イメージ」が1989年以前にあったとするなら、それは何か。

 まず思いつくのは、これは僕がよく引用するんだけど、漫画『東京ガールズブラボー』(1992年)のあとがきにある、浅田彰と著者の岡崎京子の対談でしょう。収録された90年代前半という時代が、それまでの時代とどう変わっているのかという話をしている。『マルコムX』(1992年)とか『JFK』(1991年)のような映画の流行を例に挙げ、「90年代は、リメイクされた60年代」なのでは、という提起がある。

 これはとても面白い指摘だと思うんだよね。映画『ブレードランナー』(1982年)みたいなインダストリアル・ミュージック的暗さが消えてしまったと。80年代にあった「廃墟」の美学は、冷戦構造下における核戦争の危機を背景に成立していたと言えるからね。

コメカ 80年代的な「廃墟」の美学みたいなものが、90年代以降急速に力を失っていくといった印象は、自分が中高生ぐらいの頃に80~90年代のサブカルチャーを後追いしていたときにも、すごく感じたなあ。

 僕は90年代が持っていた、ある種の猥雑さ・ハイテンションな感じが子ども心にすごく嫌だったので、80年代インダストリアル・ミュージック的ダウナーさの方をむしろ好んでいたから。

パンス 浅田彰は「廃墟」の美学が自意識過剰な精神なら、90年代にレイヴで遊んだりしてるのは「無意識過剰」だ、という言い方をしている。言い換えると、ファッショナブルな形式で隠蔽されていた自意識を外側に引きずり出す、リアルなものを体感するという感性が広がった時代だったとも言えるでしょう。

コメカ リアルというのは90年代のカルチャーにおいてある種のキーワードになっていたところがある。それは有り体に言ってしまえば、建前やヒューマニズム......当時その象徴として槍玉に挙げられることが多かった戦後民主主義は、それこそ「比較的安定した社会イメージ」の供給装置の一つだったと思う......で覆い隠されたものを突き破って、身も蓋もない現実に触れてみたい、というような志向として顕れていた。

 東京オリンピック・パラリンピックに関連してコーネリアス=小山田圭吾の過去のいじめ発言が問題化されたけれども、彼が件の発言をした二つの雑誌、『ロッキング・オン・ジャパン』と『クイック・ジャパン』も(10代の頃、両誌とも愛読していた)、リアルなものをそれぞれのやり方で模索していたメディアだったと言える。

 そこにもやはり、「イージーなヒューマニズム(『クイック・ジャパン』該当記事での表現)」をぶっ飛ばしてリアルを探す、というような志向があった。ただ、その誌面における人権感覚の欠如・差別に対する理解の浅さが、今回改めて問われることになったわけだけども。

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