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コラムニストとは何者か 小田嶋隆✕オバタカズユキ

ジャーナリストでもなく、エッセイストでもなく
小田嶋隆(コラムニスト)×オバタカズユキ(コラムニスト、フリーライター)/清野由美(ジャーナリスト)
小田嶋隆氏(右)×オバタカズユキ氏(左)
 コラムニストという職業はいかなるものなのか、キャリアのある書き手2人が語る。かつての出版状況を振り返ると、今と何が変化したのかも見えてくる――。
(『中央公論』2022年1月号より抜粋)

物書き事始め

ーーお二人がコラムニストになった経緯を教えていただけますか。

小田嶋 私はテクニカルライターが入り口でした。1982~83年頃の話で、当時は「マイコン」と呼ばれていたパソコンのマニュアルを書く仕事です。普通のライターとして『噂の眞相』で連載を持つようになったのは80年代後半からで、あの雑誌は、ギャラがすばらしいわけではなかったけれど、業界での認知度が高かった。そこから週刊誌、月刊誌の依頼が来るようになって、その際にテクニカルライターと言うと、周囲が「ピコピコする人?」と不思議そうな反応をするので、自分で勝手に「コラムニスト」と名乗るようになりました。

オバタ 『噂の眞相』では、ナンシー関がテレビコラムを書いていて、そこからコラムニストという存在が知られるようになりましたよね。

小田嶋 その前はコラムニストというと、青木雨彦(あめひこ)や、より下の世代では中野翠(みどり)が思い浮かびました。ちょっと気難しいライターが、短い文を書く時にコラムニストと名乗っていた感があります。コラムニストという名称が雑誌文化と同調して市民権を得たのはナンシー関の貢献ですね。

オバタ 私が文筆を始めたのは89年で、当初はフリーライターと名乗っていました。90年代の前半に、新聞で連載をちょっとやった時、編集部から「フリーライターは安っぽく聞こえるのでやめてほしい。ジャーナリストでお願いします」と言われたんです。でも、私にジャーナリズムの意識はなくて、どう考えてもそれじゃないだろうと拒否反応があった。それで「じゃあ、コラムニストはどうですか?」となり、それなら短いものも書いているからいいかも、で落着したんです。ただ、私は短い文も長い文も書くし、編集協力もするし、編集もする。ということで、自意識としてはフリーライター、フリー編集者というのが、実際を表していると思っています。

ーー小田嶋さんは新卒で入社した企業を8ヵ月で辞めていますが、会社に適応できなかったことと、テクニカルライターになったことは関係があったのですか。

小田嶋 直接はありません。会社を辞めた後、アマチュアバンドの座付き作詞家をやっていたんだけど、作詞家では食えなかった。ある時、銀行員のバンドと対バンをしたことがあって、その一人がマイコン関連の書籍をたくさん出して儲けていた。お前もぶらぶらしているなら書けば? と、声をかけられたんですよ。一冊書いて、細部をちょこっといじるだけで別の一冊が書けて、二重に印税が入ってくる。そういうおいしい時代が一瞬だけあって、それでテクニカルライターと言っていたんです。

オバタ その頃、会社を作られたと聞いていますが。

小田嶋 そうそう。赤坂にある知り合いの事務所に電話を置かせてもらって、専務になっていました。まあ、専務と常務と社長しかいない会社だったんですけど。

ーーオバタさんは会社員生活の経験はあるのですか。

オバタ あります。私は就活でマスコミだけしか受けなかったんですが、23社受けて、どんどん落ち、最後に竹書房に拾ってもらって、新卒で入社しました。当時からフリーランス志向で、3年は修業だと思って会社勤めを辛抱するつもりでしたが、胃潰瘍になって2ヵ月で辞めました。

ーー小田嶋さんより短いじゃないですか。

オバタ そうなんです。社長にも、すごく怒られました。それで、辞めたはいいけれど、フリーランスの仕事を取れるようなコネクションもないので、日銭を稼ぐために塾の講師を1年ぐらいしたんですね。塾講師は男の水商売のようなところがあって、ハマると抜け出しにくくなる。生徒の成長を感じるとうれしいし、それなりにやりがいを感じて、ギャラもいいので、研究者くずれ、東大院卒という人が集まっていた。でも、生活は昼夜逆転するし、金遣いは荒くなるし、ここにい続けたらまずいなと思って、週3回だけと決めていました。それが88年から89年ぐらいの時ですね。

小田嶋 世の中も雑誌もバブルで、有象無象のライターがぼこぼこと湧いていた時期ですよね。オバタさんがフリーライターの流れに乗れたのは、時代のラッキーさがありますね。

オバタ 私の最初の仕事先は『別冊宝島』だったのですが、ムックがすごく元気のある時代で、初版5万部ぐらい刷っていた。原稿料は1枚4000円と当時としては安かったのですが、まとまった分量を書かされて、厳しく鍛えられる。何よりも当時の『別冊宝島』は、巻末に名前とプロフィールが載るので、編集者と書き手にとって、いいインデックスになっていたんです。私は住所まで載せていました。

小田嶋 今では考えられないですよね。

オバタ ですから、ちょっとおかしい人が実際に訪ねてきたりもしていました。個人情報保護の感覚がない時代で、炎上も今と違って中身が濃かった(笑)。ある旧知の思想家は、鍵をかけて家を出たのに、帰ったら部屋に正座をした人がいて、ぎゃーっとなった。私のところにも、カミソリ入りの封筒が送られてきたりしましたが、牧歌的と言えば牧歌的な時代でした。

小田嶋 私は森高千里の悪口を書いた時、宅八郎に「小田嶋、必ず処刑する」みたいなことを書かれました。冗談かもしれないけど、彼の場合はそう聞こえないところが怖かった。

オバタ 私も彼のことを、「顔立ちはいいのに、あんな格好しちゃってもったいない」とか書いたら、「オバタ、殺す」と2回書かれました。

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