福留崇広 誰が一番強いのか? 昭和のプロレスを支えた名プロデューサーたち
国際プロレスで活躍したストロング小林。昭和48年撮影。(撮影:山内 猛)
日本人対決という「禁断の扉」
新間が猪木と仕事を共にしたのは昭和41(1966)年、経費使い込みを糾弾された豊登が、猪木を口説き落とし日本プロレスから引き抜いて設立した「東京プロレス」でのことだった。新間は旧知の豊登に請われて営業部長となったのである。ところが同団体はわずか3ヵ月で崩壊。社長となった猪木が新間を業務上横領で告訴すれば、新間は名誉毀損で提訴し、2人は一度絶縁。猪木は再び日本プロレスに戻るも、会社との度重なる確執の末、「会社乗っ取り」を理由に追放される。プロレス史に刻まれる動乱の中、猪木は昭和47年3月に新日本を旗揚げするのである。
一度は新間と絶縁した猪木だが、新間の営業手腕を見込んで頭を下げ、新日本に引き入れる。しかし、1年目の新日本はレギュラー中継もなく興行は苦戦が続き、1億円ほどの負債を抱えていた。
一方馬場は、日本テレビの全面支援を受けて昭和47年10月に全日本プロレスを旗揚げする。町田市体育館での旗揚げ前夜祭から毎週土曜の実況生中継で全国にその名を知らしめた。さらに当時、アメリカで最多のプロモーターが加盟するNWA(National Wrestling Alliance)に加わり、世界最強と謳われたヘビー級王者など、人気外国人選手の招聘も独占して順風満帆の経営を進めていた。
新日本は、2年目に日本プロレスを退団した坂口征二を入団させ、NET(現テレビ朝日)が毎週金曜夜8時の中継を開始したが、肝心の興行成績は上がらなかった。最大の理由は、知名度の高い外国人選手を呼べなかったことだった。
日本のプロレスは、力道山時代から「日本人対外国人」が主流であり絶対だったのである。シャープ兄弟やルー・テーズ、ザ・デストロイヤーなど強豪外国人を、小兵の日本人選手が迎え撃つ。その構図にファンは胸を躍らせたのだ。
一方で昭和46年から48年にかけては、先のようにプロレス界の勢力図が激変する。それまでは日本プロレスの一強時代だったが、47年に猪木が新日本を、馬場が全日本を立ち上げ、吉原功の国際プロレスも含め4団体になっていたのだ。それぞれの団体にエースがいる。日プロ一強時代は、馬場がエースで猪木が2番手、坂口が3番手だった。ところが団体が分裂したことで、ファンは「誰が日本人で一番強いのか」に興味を抱くようになるのである。
そんな激変期の昭和48年秋、新間は専門誌『月刊ゴング』編集長の竹内宏介からある情報を耳にする。
「竹内が私に『今、国際(プロレス)でストロング小林が浮いていますよ』って教えてくれたんです。『浮いていますよ』って言われても、当時の小林さんはIWAチャンピオンで国際の絶対的なエースでしたから。最初は半信半疑だったんですが、調べてみると、小林さんは確かに国際の中で孤立していた。それで私の中に火が付きました。『猪木さんと小林さんを闘わせたら、すごいことになるぞ!』と。そこから、すぐに行動しました」
小林は国際プロレスのエースながら、マッチメイカーを務めるグレート草津から冷遇され、自身の待遇に不満を抱えていたのである。ファンは日本人で誰が一番強いのかを知りたい。しかも、団体の枠を超えた「日本人対決」は、昭和29年に日本プロレスの力道山と国際プロレス団の木村政彦が行った一戦、翌30年の全日本プロレス協会の山口利夫と力道山による試合以来、約20年にわたり実現していなかった。
1968年愛知県生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。92年に報知新聞社入社。記者として大相撲、格闘技、プロレス、ボクシング、サッカーなどを取材。現在は同社デジタル編集部所属。著書に『さよならムーンサルトプレス』『昭和プロレス禁断の闘い』など。