速水健朗 なぜ批評は嫌われるのか 「一億総評論家」の先に生じた事態とは
(『中央公論』2022年4月号より抜粋)
- 口コミと批評家と権力欲
- 言論ではなく共感をめぐる競争へ
- メディア環境の変化と批評家嫌い
- 解釈と経験の対立構図
口コミと批評家と権力欲
以下に紹介するのは、現代の"批評家"をめぐる寓話である。
アメリカの小さな町の話だ。この町のレストランには、自分がグルメ評論家であると店主に伝え、特別な席やサービスを要求する客たちが増えつつあった。
アメリカにも「食べログ」のような、飲食店の口コミサイトが存在する。彼ら(自称グルメ評論家たち)は、その口コミサイトのレビュアーたちである。
ネットで低い評価をつけられることを恐れる飲食店側は、彼らの要求に応じざるをえない。自称グルメ評論家たちは次第に増長し、横暴になっていく。
耐えかねた一人の店主が、勇気を持ってレビュアーたちを追い出すことに成功した。すると、町中の飲食店が、レビュアー立ち入り禁止の看板を立て始めた。誰も言い出せなかっただけで、レビュアーたちの横暴さに怒りを覚えていたのだ。それまで特別なサービスを与えられていた彼らは、もうレストランに足を踏み入れられないという罰を受けたのである。
この寓話から思い起こされるのは、かつて評論家の大宅壮一が、テレビの登場した頃に指摘した言葉「一億総評論家」である。
実はこの言葉は、彼が生み出したもう一つの流行語「一億総白痴化」を補足するために生まれたものだ。大宅は、テレビやラジオといった大衆向けの「マス・コミ」が登場したことで社会全体が低俗な側に引っ張られてしまうことを危惧し、「一億総白痴化」という造語を生み出した。
その一方で、テレビの視聴者参加型番組や新聞、雑誌の投稿欄など双方向性の部分を「有意義な機能」として捉え、「一億総評論家」の語を提唱したのだ(「『一億総評論家』時代」1958年)。
それから半世紀後、双方向の機能に特化したソーシャルメディアの登場は、「一億総評論家」的な状況をさらに前に進めた。
この寓話が描いているように、ネットのレビュアーたちの口コミ評価は、数値化され、実社会(飲食店の来客数)に影響を与えた。そこで何が起きたか。人々の権力欲に火がついてしまったのだ。
寓話にはまだ続きがある。
自称グルメ評論家の一人であるカートマンは、特別なサービスを受けられなくなったことに不満を感じ、レビュアーたちを集めた決起集会を開く。彼は演説し"レビュアーが増え過ぎたこと"に問題があるのだと主張した。
カートマンはエセ評論家たちを追い出すことで、いったんは失った権威を再び取り戻すことができると考えたのだ。
もちろん、カートマンは自分こそが本物で、集会に集まったレビュアーたちはエセ評論家だと思っている。しかし、集まった全員が、実は同じように考えていた。皆それぞれが自分こそは本物のグルメ評論家であり、その言説によって、レストラン選びに迷っている一般の人々に対して強い影響力を持つ存在、ひいてはその活動を通して町全体を精神的にリードする指導者なのだと信じきっているわけである。
カートマンの演説に煽られたレビュアーたちは、自分たちの側に正義があると強く認識したようで、突如、行動を起こした。彼らが向かったのは、レビュアーたちを追い出した飲食店。町の平和は乱され、レビュアー対レストランの対立は、住民を震撼させる全面戦争へと発展していく――。
この寓話とは、シニカルな内容で知られるアメリカのアニメーション番組「サウスパーク」の中の一話(シーズン19「"食べるログ"お断り」、原題「You're Not Yelping」)である。