鏡リュウジ 占いは世界のモデル化――呪術現象に満ちた社会を考える

鏡リュウジ(占星術研究家、翻訳家)
鏡リュウジ氏
 聖地巡礼やパワースポットの流行など宗教的行動に溢れている日本。しばしば言われる無宗教というのは本当か。占星術の実践者であり研究者でもある鏡リュウジさんにお話を伺った。
(『中央公論』2022年5月より抜粋)
目次
  1. 宗教と呪術のあいだ
  2. 占いというモデル思考

宗教と呪術のあいだ

――ノストラダムスの大予言、UFO、ネッシー、口裂け女、都市伝説など、1970年代から2000年あたりまでは常に「オカルトブーム」が起こっていたように記憶しています。その後はパワースポットやオーラなど、「スピリチュアル」と呼ばれる事物を、多くの人が日常生活に取り入れています。このようなブームが繰り返し起こるのは、多くの日本人が特定の信仰を持たないからなのでしょうか?

 僕は日本社会が無宗教だとは、一度も思ったことはありません。むしろ宗教的な現象が溢れている社会だと思います。

 キリスト教やイスラム教といった、強固なメンバーシップを前提とした組織宗教だけが宗教ではありません。英語で「宗教」を意味する「religion」は、もともとはラテン語の「religiō(religiōnis)=神聖な義務」や、「religāre=固く縛る」から派生したと言われています。この語源は西欧的な宗教観をよく表していて、宗教といえば社会的な紐帯を保証する共同体という意味をはらんでいるのでしょう。

 しかし、そのように組織化されていない宗教は世界中にあり、日本人にとっての「信仰」もそのようなものだと思います。21世紀に至っても、僕らは敷居を踏むことに抵抗を感じ、北枕で寝ると落ち着かず、帰省すればお墓参りに行くわけです。

 パワースポットや占い、おまじないはしばしば「呪術信仰」と言われます。島薗進先生は「新霊性運動・文化」という用語で論じてくださっていますが、僕が大学で宗教学を学んだとき、とくに初期の宗教学では呪術と宗教を区別しようとしてきた伝統があると知りました。いまだにその区別をしようという流れに違和感が拭えないのです。キリスト教のメダイも密教の護摩壇も呪術ではないのかと。素人なので、今の学問的知見がどのようなものかはわからないですけれど......。しかし、少なくとも呪術的なものと宗教的なものをなるべく峻別して、「低級、原始的」な呪術から高尚な精神性へと人々を解放する宗教、倫理へと「進歩」してゆくとみなす指向性が知的な人々の間で広がっていたのは事実だと思うのです。

 けれども、これは宗教学者も使う言葉ですが、「magico-religious(呪術宗教的な)」現象は、今でも世の中に満ち溢れていて、僕はそれこそが人間として自然なあり方だと思います。

 例えばボウリング場に行くと、ボールを投げた後に派手なアクションをする人がいます。手を振っても身体を揺らしても、ピンが倒れるわけではないことは、皆知っている。しかし、それが自然と身体化された感覚なのであって、そのマンガ的表象が『ドラゴンボール』の「かめはめ波」だったわけです。魔術的、呪術的な行動が、身体にインストールされているんですね。

――テレビに向かって「打て!」と叫んだからといって、サッカー選手がシュートを打つわけでないことはわかっているけれど、ついやってしまうというのもそうですね。

 他にも、赤い食べ物を摂れば血が増える、といった民間信仰は世界中で見られますが、赤い色素と血液は似て非なるものです。このように類似性や共通性があるだけで、本来は関係のない事物を関係づけてしまうことを「観念連合」と言いますが、初期の宗教学では呪術を「誤った観念連合」とみなして、「類感呪術」や「共感呪術」と呼んでいました。共感、シンパシーです。これは科学以前の誤った論理だというわけですね。しかし、興味深いことに、このシンパシーという言葉は、ルネサンスまでの世界では大変高尚な言葉だったというのです。世界のさまざまな事物が共感し響きあうという美しい世界です。それを「愛」とも呼んでいたと知って僕は感動しました。

 このようなモデルは合理的、近代科学的に見れば誤りかもしれません。しかし、逆に言えば、僕たちの思考はそのような「誤り」を犯すことができるほどに精緻で複雑だとも言えるのではないでしょうか。単純な計算機ではこのような観念連合の美しい「誤り」はできそうもありません。

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