『革命的知識人の群像――近代日本の文芸批評と社会主義』木村政樹著 評者:赤井浩太【新刊この一冊】

木村政樹著/評者:赤井浩太(批評家)
『革命的知識人の群像――近代日本の文芸批評と社会主義』木村政樹著/青土社

評者:赤井浩太

 露帝がいきなり暴力装置を発動させたら、世界史は19世紀と1930年代をごちゃ混ぜにしたかのようなキナ臭さを匂わせはじめた。さて、奇しくも本書は、近代日本の知識人たちにおけるロシア近代文学・社会主義の受容とその歴史的展開を追ったものである。

 登場人物をざっと挙げれば、昇曙夢(のぼりしょむ)、相馬御風(ぎょふう)、大杉栄、荒畑寒村、平出修(ひらいでしゅう)、堺利彦、有島武郎、室伏高信(むろふせこうしん)、吉田一、山川均、福本和夫、徳永直(すなお)、蔵原惟人(くらはらこれひと)、宮本顕治、平野謙、中野重治、中村光夫、荒正人(あらまさひと)、本多秋五(しゅうご)などが取り上げられ、そこにクロポトキン(特に『ロシア文学の理想と現実』)、チェーホフ、ツルゲーネフ、トルストイ、プーシキン、ゴーゴリ、レーニン、ブハーリン、ルカーチなどが挟まり、戦前・戦後の政治運動史と文芸批評史との接点が論じられる。群像劇的な文学史としては壮観だ。

 こうした人々の言説を「「知識人」関連語群」の概念史として論じる著者の木村は、この概念を「自己や他者を階級的存在としてカテゴリー化し、社会のかたちを描き出す」道具として捉えた。つまり「プロレタリア」と「ブルジョア」との間で揺れる知識人の位置をめぐる様々な言説が子細に論じられ、それに関わる社会運動や歴史認識についての論争史が展開されるのである。概念と論争に着目するこの方法を、『近代文学』派の平野謙の問題提起から継承したという木村は、それを平野ら自身へと差し向ける。「社会主義の影響を受けた文芸批評のことを、ここでは「革命的批評」と呼ぶ」という本書の定義(?)からすれば、やはり平野なども「革命的」なのだろう。

 しかし、何がどのように「革命的」なのだろうか。そこが分からない。『近代文学』派に対する批判者の柄谷行人(からたにこうじん)は平野を評して、戦後文学の「政治と文学」といった党派的な図式を「「護る人」だった」(「党派性をめぐって」)としている。俺にとって「革命的知識人」とは、既存のゲーム盤を引っくり返して新しいゲームのルールを作り出す超攻撃的なスタイルの持ち主のことなのだが。はて、「革命的」ってなんだっけか。

 むろん柄谷の平野評が絶対というわけではない。ただ、この知識人たちを「革命的」と再評価するには理論的な説得力がやや足りないように思うのだ。なぜ木村は、序章で柄谷ら『批評空間』派を正面から叩きにいかなかったのだろう。例えば木村によれば、「〔中村光夫において〕社会認識の問題は、マルクス主義理論では捉えきれない、文学者である荷風の文明批評に託されることになる」という。絓秀実(すがひでみ)の議論を受けて書かれるこの中村の封建制理解にしても、つねに文学が政治に対して措定される平野由来の「政治と文学」的な対立図式――文学の中に政治が、政治の中に文学があることは捉えきれないこの対立図式――が反復されるだけだ。研究がすべきは、この枠組み自体を問うことではないのか。

 それからもう一つ。戦後において「対立物を対立のまま統一する」と主張し続けた「革命的知識人」は、本書では取り上げられていない。『近代文学』にも『新日本文学』にも関わりが深いその人、花田清輝である。「革命的批評」は、案外この花田評価をめぐって着火されるかもしれない。

(『中央公論』2022年5月号より)

中央公論 2022年5月号
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木村政樹著/評者:赤井浩太(批評家)
◆木村政樹〔きむらまさき〕
1986年生まれ。東海大学講師。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程修了。博士(学術)。専門は日本近代文学。

【評者】
◆赤井浩太〔あかいこうた〕
1993年生まれ。批評家。批評誌『ラッキーストライク』同人。日本語ラップや革命、詩や身体などをテーマに活動。「日本語ラップfeat.平岡正明」で第2回すばるクリティーク賞を受賞。
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