高井ゆと里 『存在と時間』の新しい読み方【著者に聞く】

高井ゆと里
『ハイデガー 世界内存在を生きる』高井ゆと里著(講談社選書メチエ)

――本書はハイデガーの主著『存在と時間』を読み解いています。入門書が多くある中で、意識したことは。

 ハイデガーの『存在と時間』はこれまで2種類の読み方をされてきたのですが、私はどちらとも違うアプローチをして差異化を図っています。

 歴史的にはまず、実存主義の書として読む方法がありました。私たちは日常的には、名前のない大衆の中に自己を埋没させてしまっている。当時、ラジオや新聞の普及が情報の伝達を早くしたのと同時に、受け手を大きく拡大したので、扇動的な仕方で感情ごと揺さぶられる状況を、確かにハイデガーも憂えていたと言えなくもありません。

 そこで、一人ひとりが自分の死を引き受けて、孤独な人生を掴みなおすのだ、そうすべきなんだという、一種の「べき論」の形で『存在と時間』は読まれてきた経緯があります。

 もう一つの大きな解釈潮流は、存在論の著作として読むものです。これは、あるものについてではなく、ものがあること、ひいては世界があるとはどういうことかを考えるための礎として同書を読む方針です。2000年ごろ生まれたこの解釈潮流は、日本の研究にも大きな衝撃を与えました。

 私は存在論のプロジェクトとして『存在と時間』を読み切るのは勿体ないと思い、実存哲学らしいものを復興したかった。しかも、単なるルネサンスにはしない形で。人間が生きているとはどういうことか、我々が行為をするとはどんなことか、他の人と同じ世界を生きているとは、自分の死について考えるとは、など、ウェットな話をしている本として読もうというのが、私のオリジナルな路線です。

――刊行後の反響はどうでしたか。

 初期キャリアの研究者を自認している人たちに向けて、献本の募集をしたのですが、100件近く連絡をもらった中には、看護・医療系の方たちがかなり多くいました。そうした領域の方たちにハイデガーが読まれている理由は大きく二つあると思います。

 一つは、看護学の領域で現象学の手法が用いられているからです。実際、ハイデガーは現象学者として知られていますが、看護研究では看護師や患者の経験をなるべく内在的に理解するためのアプローチとして現象学が用いられています。脈拍や体重を調べてもわからない患者さん自身の世界、例えば、体の状態や家族との関係、医療従事者とのかかわりなどを、どう解釈し、受け止め、感じているのか。これらを知りたいときに参照されるのです。

 二つ目は、『存在と時間』の鍵概念の一つである「気遣い」という言葉にあります。ドイツ語でゾルゲ、英語でケアと訳されますが、看護・医療に携わる人たちが、ケアとは何かを理解するために役立つとの見通しのもと、『存在と時間』が広く読まれています。

 我々はケアする生き物であるというのが、ハイデガーの主要なテーゼの一つで、ようするに私は自分のことを気遣っている。だからこそ、この世界にあるものや、他者に対して関心をもつ。これが基礎にある一つの考え方です。

――なぜ、ハイデガー研究を始めたのでしょうか。

 外的な理由ですが、学部4年生の頃から、ゼミ全体の議論をリードする役目を務めるようになったことが大きいです。ゼミ1回につき1段落読み進めるぐらいのペースなのですが、単語1個の意味や文のつながり、前の段落から何が進んだか等を話し合う中で、議論の方向性を示すことが漠然と期待されるようになり、それに責任を感じるようになった。期待を裏切るわけにはいきませんから、『存在と時間』を穴が空くほど読み、研究書を漁りました。

 指導教官が熊野純彦という先生で、レヴィナスやヘーゲルなど、そのときに邦訳しているテクストをゼミで扱うことが多いのですが、私のときは偶々ハイデガーだった。人に言うと「そんなしょうもない理由で」と笑われるのですけれど、ただ古典がすごいのは、やはり読めば面白いし、やり残されている研究が必ず見つかる所です。

(『中央公論』2022年5月号より)



中央公論 2022年5月号
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高井ゆと里
〔たかいゆとり〕
1990年生まれ。群馬大学准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。国立がん研究センター特任研究員、石川県立看護大学講師などを経て現職。専門は哲学、倫理学。論文に「ハイデガーの〈ひと〉論」「何が行為を意図的にするのか――ハイデガー『存在と時間』の視角から」など。
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