『石の花』坂口尚著 評者:石岡良治【このマンガもすごい!】

石岡良治
『石の花』坂口尚著/KADOKAWA

評者:石岡良治

 歴史的事象を主題にしたマンガ作品が、発表当時は想定されていなかった後世の出来事と共振するかのように、ふいに現代性を帯びることがある。第二次世界大戦中のユーゴスラビアにおけるナチスとレジスタンスの闘いを主題として、1983年から86年にかけて発表された坂口尚(ひさし)(1946~95年)の『石の花』は、何度もそのようにアクチュアリティを帯びてきた名作である。2022年の新版での復刊は、そのプロトタイプと言える短篇「抵抗の詩(うた)」(1970年)が収録されたこともあり、本作の重要性が再確認される機会となった。

 まず、日本のマンガ史をたどろうとする際の「ミッシングリンク」としての重要性が挙げられよう。ひとは手塚治虫の偉大さをしばしば語るが、現在の日本マンガと手塚作品の表現面でのギャップは案外大きい。坂口は、手塚が創立した「虫プロダクション」に1963年に入社し、アニメーターとしてキャリアを始めており、マンガ家となってからも手塚アニメの重要な節目で主要スタッフとして活躍していた。その一方で本作『石の花』では、手塚マンガをビジュアル面で刷新した大友克洋的なスタイルを完全に使いこなしている。連載時期が重なる後期手塚の名作『アドルフに告ぐ』(1983~85年)と比較しつつ読めば、示唆に富む読書体験となるだろう。

 さらに、1990年代の残酷な内戦を経た結果、複数の国家へと解体されたユーゴスラビアの複雑な歴史を知る契機としての重要性が挙げられる。2度の世界大戦の舞台となり、冷戦期には共産政権でありながら強大なソヴィエトから巧みに距離を取ったカリスマ指導者チトーのもとで国家統一を果たしたものの、1980年のチトーの死後は同地域の求心性が失われていくなかで本作は描かれた。ナチスに抵抗する諸勢力の相異なる思惑を冷静な筆致で見据えており、人間性への信頼を手放さないままリアリズムに徹した描写は今なお古びていない。日本語で描かれた同地域についてのフィクションとして最も優れた作品のひとつと言いうる本作は、まさに坂口尚の代表作と呼ぶのに相応しい。

 以上のように、世界史の転換点を巧みに描き出し、マンガ史における転換点の証言でもあるという、唯一無二の特性をもつ本作には、復刊とほぼ同時期に生じたロシアによるウクライナ侵攻も相まって、さらなるアクチュアリティがもたらされた。だが、それでも近年のマンガと比べると、例えばヒロインのフィーに降りかかる苦難がそこまで過酷にはみえないかもしれない。またタイトルである「石の花」の主題系がしっかりと描かれつつも、終盤の展開はやや駆け足に思えるところはあるだろう。だが、今回の復刊で知られるようになった「抵抗の詩」が年少者も容赦なくナチスによって殺されてしまう残酷な結末をもつことと比べると、本作には熟慮の末に練り上げられた「優しさ」がある。それは主人公クリロとフィー、そして読者が、作品世界の「その後」を生き抜き、考え続けることをうながしているのだ。

(『中央公論』2022年9月号より)

中央公論 2022年9月号
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石岡良治
早稲田大学准教授
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