林 晟一 在日論の賞味期限は切れていない【著者に聞く】
──本書は在日(在日韓国・朝鮮人[コリアン])を古くからの移民と捉え、その戦後史を綴った一冊です。執筆の際に意識したことをお教えください。
2002年の日韓共催FIFAワールドカップ以降、在日へのバッシングが目立つようになりました。ただ、その中で在日をめぐる議論が掘り下げて行われたかというと疑問が残ります。細かいところでは色々とあったでしょうが、姜尚中(カンサンジュン)や鄭大均(ていたいきん)といった方たちの世代のところまでで、在日論は停滞した印象があります。在日にとっては「失われた20年」だったと言えるのではないでしょうか。
けれど、在日論の賞味期限が切れたわけではないと思っています。日本が移民国家への道を探るとき、古くからの移民である在日の経験は参照に値するはずです。その意味で、在日論が果たす役割はまだまだあると感じながら、本書を仕上げました。
それと、在日に関する話は、どうしても重く暗いものになりがちです。歴史的経緯からしてやむを得ない部分も大きいですが、そうした描き方とは異なるアプローチがあってもいいと思います。本書では、若い読者も念頭に置きつつ、戦後の在日の歩みをなるべく多面的に示しました。
──本書では歴史的事実やデータ、識者の言説、そして在日3世である林さん自身の経験など、いくつもの切り口が示されていますね。
国際政治の文脈もあれば、参政権や指紋押捺(おうなつ)といった制度にも触れていますし、金嬉老(キムヒロ)事件のような歴史上の出来事も多く扱いました。編集者は、本の帯に「アカデミック・ノンフィクション」と銘打ってくれましたが、それはデータや学問的根拠が重視されている点をふまえてのことでしょう。
とは言っても、私が純粋な学問の世界に属していたら、こういう書き方はしなかったかもしれません。本書では自分や家族の「小さな」歴史を、日本社会をめぐる「大きな」課題に接続しました。こうした変則的なスタイルをとれたのは、私がアカデミズムからやや距離のある、中高の教員として働いていることが大きいと思います。
──本書では映画が豊富に取り上げられているのも印象的です。
映像作品の中で描かれる在日の位置づけは重要だと思っています。在日に対するイメージを持つきっかけにもなるし、その変遷も感じとれます。ですから、『キューポラのある街』(1962年)、『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』(75年)、『月はどっちに出ている』(93年)など、時代を映すさまざまな作品に言及しました。2001年に公開された窪塚洋介主演の『GO』は、リアルタイムで観て、私自身が強いインパクトを受けました。やっぱりフィクションの力って大きいんですよ。
ただ、近年、韓流ドラマはどんどん日本に入ってきている一方、在日を描く作品が少なくなってしまったのは残念です。本書では取り上げられなかったのですが、平野啓一郎原作の映画『ある男』(22年)では、在日の生きざまが重要なサイドストーリーとなっていて、とても見応えがありました。こういう作品が増えると在日について考えるきっかけになるはずですが、在日を描く作品は何かと製作しにくい時代なのかもしれません。
──日本人と在日の間にはさまざまな課題があるものの、歴史の積み重ねを基に接点を増やし、希望へつなげてゆくべきだとの思いが、本書の根底にはありますよね。
在日のリアルな経験は、スローガンとして唱えられるだけの「多文化共生」とは対極にあります。その経験は失敗も含めて、ある種の宝庫と言えるでしょう。本書では在日の歩んだ歴史を綴りましたが、LGBTQやさまざまなマイノリティの方々にも開かれた内容となることを心がけました。
普段、私は中学生や高校生を教えています。だからこそ、これからの社会を築く若い人が本書を読んで何らかの希望を抱いてくれたら、著者としてこれほど嬉しいことはありません。
(『中央公論』2023年3月号より)
1981年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程中退。都内の中高一貫校で歴史や国際政治学を教える。社会・政治に関する評論を手がけ、『アステイオン』や本誌などに寄稿。共訳書に『キューバ危機』がある。