武田徹 立花隆の原点を探る。長崎で生まれ、北京からの引き揚げ体験はどのような影響を与えたのか
山口から広島を経て郷里・水戸に着くまでに出会った人々
1946年3月22日に天津港からLST(米軍貸与の大型揚陸艦艇)に乗り、2日間かけて山口県の仙崎港に渡る。終戦から既に8ヶ月が過ぎていた。
すしづめだった一同が仙崎海岸に集合したとき、人数は大体七、八百名くらいかと思われた。「国破れて山河あり」、緑も豊かな日本の国土が見えてきたときの感激と、「これで帰れた」という安堵感はたとえようもなく、青い海も中国にはない美しさだったけれど、何よりも胸に迫ったのは、あちこちに色鮮やかな夏みかんが実っていたことだった。野菜も果物も見ることが出来なかった八ヶ月だったからだろう。今でも私は三月になって夏みかんが店頭に出たり、庭木として育っていたりすると、あの時の感激を思い出さずにはいられない。経雄三十六歳、私は三十歳、弘道七歳、隆志五歳、そして生きて祖国に帰れたのは奇跡としか言いようのない直代は一歳七ヶ月だった(『おばあちゃん引き揚げ体験記』より)。
点呼のあと、DDTで頭から背中まで真っ白に消毒される洗礼を受けたあと、一家は港にほど近い家を宿舎に割り当てられた。昔は旅館だったのではと思われる大きな家を六十歳台と思われる女性が一人で切り盛りしていた。おひついっぱいの白米に、魚あり、野菜ありの食事、広々としたタイルの床の風呂。一家は生き返ったような気持ちになったという。
出発の時には茨城まで足りるようにと固く握ったおにぎりをもたせてくれた。龍子は「あの頃、白いおにぎりなどどこを探してもない程貴重なものだということは、後になって嫌という程知らされるのである。最近になってふと、あの大きな家に一人ということは、もしかしてお子さんが戦死されたか、或いは復員を待っておられる時だったのかと思ったりしている」と書いている。
下関駅まで出たが、引き揚げ者用列車の手配上の都合だったのか、一夜を駅で過ごす。ベンチでは直代をおぶり、弘道と隆志を二人の親の間に座らせた。夜がふけるとどこからともなく、ボロ服をまとった子どもたちが集まってくる。龍子はボロ布に隠れた頭皮をみて慄然とした。火傷のケロイドがあったからだ。広島が被爆したことを知らなかったので、その子どもたちを原爆と結びつけることは出来なかった。ようやく列車が下関を離れ、広島の通過した時の記憶も龍子にはない。かつて長崎時代に影響を受けた無教会派キリスト者だった湊川孟弼も長崎に投下された原爆の犠牲となり、爆心地に近い自宅で仕事をしていたときに即死していたことも知るすべもなかった。ちなみに『活水学院百年史』によると湊川一家は学院側でも必死に探したが遺骨すら見つからず断念し、後に子どもが一人だけ小学校を臨時に病院とした施設で保護されていたことがわかったという。
列車が東京駅につく。水戸に向かうには国電で上野駅まで移動する必要があった。角帽をかぶった学生が走り寄って、隆志が背負っていた大きなリュックを持ち、隆志をおぶって「さあいきましょう」と家族に声をかけた。
五歳の彼(隆志:引用者註)はずっとそのリュックを中国出発以来移動するごとに背負って来てくれた。中身は妹のおむつなどの衣類が入っているものでかなりの重さであった。栄養不足の小さな体にとって、それはかなり苛酷なことであった。それを重々承知の上で頼まなければならない長い旅だったのだ。......隆志には「もういいのよ」と何度いたわってやりたかったか知れない。でも我々も必死で持てる限りの荷物を持ち、そして直代を背負っていたのだ。
その隆志を真っ先に見てとって手をのべてくれたことは、母親として胸が熱くなるほどのありがたさ、嬉しさであった。この人は早稲田の学生ということで、ボランティアとして東京駅に引揚列車の到着を待っていてくださったのだろう。上野駅へと階段を上り下りし、国電にのりかえ、無事に常磐線のホームにたどりつけたのもこの学生の助けがあったればこそであった。粗末な学生服のこの人は、驚いたことに素足であった。私は未だに残っているおにぎりを一個差し出した。でも丁寧に断って水戸へ向かう列車が出るまで見送ってくださった。お名前をきくこともなくお別れしたが、今はもう七十歳にはなっていることと思う。(同前)
こうして立花一家は両親の郷里である水戸に帰った。水戸までの長い引き揚げの旅は終わり、立花はこの水戸の地から長い知の旅を始めることになる。
(1)太田孝子「自由学園北京生活学校の教育:日中戦争下の教育活動」『岐阜大学留学生センター紀要』1999−03