制度の独立を守って 牧原 出〈第24回読売・吉野作造賞〉受賞のことば

牧原 出(東京大学先端科学技術研究センター教授)
牧原 出(東京大学先端科学技術研究センター教授)
「読売・吉野作造賞」は、政治、経済、社会、歴史、文化の各分野における優れた論文および評論を顕彰する賞として、2000年の創設以来、受賞作を選んでまいりました。本年度は、2022年1月から12月までに発表された雑誌論文、著作を対象とし、厳正な審議の結果、『田中耕太郎――闘う司法の確立者、世界法の探究者』牧原出(中公新書)を受賞作と決定いたしました。
 なお選考には、北岡伸一、猪木武徳、山内昌之、白石隆、吉川洋、老川祥一、安部順一の各委員があたりました。

〔2023年6月 中央公論新社〕

 このたびは栄誉ある賞を受賞することとなり、長年の研究を評価して頂いたことに深く感謝いたします。選考委員の皆様、本書執筆でお世話になった方々には心から御礼申し上げます。

 田中には、若い頃から同時代の著名人との交流にまつわるエピソードが殊の外豊富です。田中に結婚を勧めた吉野作造は「田中君の様な気分にては良縁を得難かるべ」し、つまりは堅物だと評しています。徳富蘇峰の娘との縁談が破れたときの後日談です。また、田中は第一高等学校時代に師事していた新渡戸稲造の勧めで、森鴎外にドイツ語小説の翻訳原稿を見せ、アドバイスを得て出版に至ります。東京大学附属図書館の鴎外文庫が所蔵するこの本には、鴎外に宛てた田中の署名があります。

 文学を愛好していたからか、田中は痛快で「劇的」な回想談に事欠きません。元来商法学者であり、ともすれば専門用語だらけになりがちな評伝に、こうした挿話を入れ、思わず先へと読み進めたくなるよう心がけました。

 田中の活動は多岐にわたります。法学研究と法典編纂での提言はもちろんのこと、自由主義論壇人として積極的に発言し、戦後は文部大臣として日本国憲法の制定の一翼を担い、参議院文教委員長、最高裁判所長官、国際司法裁判所裁判官として、制度形成に尽力しました。憲法上の三権の中枢を担った唯一の人物です。

 しかし、その後田中は急速に忘れられた存在となります。それは、田中の属した組織が、概ね閉鎖的であり、内部の意思決定に関する情報を出さない傾向が強い上、それに関わる分野が商法学、カトリック神学、教育学、訴訟法学、国際法学など、いずれも専門性が強く、これら全体を見渡すことが困難だからです。しかし田中自身は、大学・教育制度・司法権といった制度に共通して「独立性」に関する「理論的な統一」があると明確に述べており、本書は、この「理論的な統一」の内実を田中の足跡に即して解明しようとしました。

 こうした構想の出発点は、2000年代初頭のイギリス留学で感じた時代の雰囲気でした。冷戦終結後のグローバル化と民主化の流れの中、国際機関の役割に期待が寄せられた当時、ある国際組織法の研究書は、国際機関が国家からどの程度自立性を保つかというくだりで、各国における司法権の独立性確保の戦略と比較しています。制度の枠を越えた多様な独立機関の比較検討は、欧米では珍しいものではないのです。この時期、独立機関の強化が図られたのは、日本を含め世界的な改革潮流でした。

 こうした視点をとると、政治制度とは、国会・内閣・各省だけではなく、司法権をはじめとする諸々の独立機関が林立する森のようなものとして立ち現れます。とはいえそうした制度イメージは、日本では必ずしも広く理解されてはいません。田中の生涯は、近代以降の日本における「制度の森」の形成過程を体現しているのです。

 言うまでもなく諸分野を通貫する作業は困難を極めました。15年ほどの年月をかけて資料を集め、分析を続ける内に時代は変わり、日本では、2009年、12年の二つの政権交代を経て、首相の権力が強められた反面、これら独立機関の独立性が毀損される事態が目立つようになりました。世界的に見ても国際機関は、国際政治を枠づける役割を失いつつあります。

 田中が直面したのは、まさにこうした機関の独立性が危機に瀕した時代です。戦争に向けて軍部が大学を統制しようとし、戦後は占領軍が教育行政に介入し、国会・政党が裁判所の意向を無視して司法制度を変えようとしました。国際司法裁判所も、アパルトヘイトを巡る判決にアジア・アフリカ諸国が激しく反発し、扱う事件数がゼロとなる事態に直面しました。田中の姿勢は、軍部であれ政党であれ社会勢力であれ、外からの介入に断固対抗しようとするものでした。その足跡は、戦前の平賀粛学や、戦後のいくつかの裁判判決に見られるように、右を叩き、左をくじくといった具合にきわどい決定の連続でした。独立性を守るには、こうした「きわ」を見定めて、常日頃は慎重かつ受動的にディフェンス・ラインを引き、ここぞというときには大胆に反駁することが不可欠です。その判断には多方面からの批判と非難が舞い込みます。「きわ」をたどりつつ、独立の信念のもとに苦渋の判断を重ねる中で、制度の森は徐々に広がり、市民社会を底支えしてきました。本書を通じてこの基盤の成り立ちが広く理解され、今後より強固になることを願ってやみません。

(『中央公論』2023年7月号より)

『田中耕太郎――闘う司法の確立者、世界法の探究者』

牧原 出

戦前、論壇人、東大教授として大学自治を守ろうとした田中耕太郎。戦後は文相に就き教育基本法制定に尽力。復古主義・共産主義を排し新憲法を強く支持した。参院議員を経て最高裁長官就任後は10年の在任中、松川・砂川事件など重要判決を主導、「反動」と誹られながらも脆弱だった司法権を確立。退任後は国際司法裁判所判事に選出される。激動の時代、学界・政界・司法の場で奮闘し戦後日本を形作ったカトリックの自由主義者の生涯。

中央公論 2023年7月号
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牧原 出(東京大学先端科学技術研究センター教授)
1967年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業。博士(学術)。東北大学教授などを経て現職。専門は行政学。『内閣政治と「大蔵省支配」』(サントリー学芸賞)、『崩れる政治を立て直す』など著書多数。
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