『ラブ&ポップ』監督:庵野秀明 評者:吉田伊知郎【気まぐれ映画館】
評者:吉田伊知郎(映画評論家・ライター)
数年前、渋谷駅の桜丘口南西部にあたる桜丘口(さくらがおかぐち)地区を歩いていて、無人の世界に迷い込んだ感覚に陥ったことがある。このとき、一帯が再開発されることを知った。今も工事が続く渋谷は、街を根こそぎ作り替えているかのようだ。
村上龍の同名原作をもとに、援助交際によってトパーズの指輪を購入しようとする女子高生が渋谷で過ごす一日を、ドキュメントタッチで描いた庵野(あんの)秀明監督の『ラブ&ポップ』(1998)。本作に登場する97年夏の渋谷も、果てしなく工事が続いている。
庵野が鉄塔、鉄道、重機などにフェティッシュなこだわりを持つことは、「新世紀エヴァンゲリオン」などで知られているが、本作も意図的にそうした場で撮影されている。実際、援助交際で男たちと対面するのも、山手線の線路越しや、大型クレーンがそそり立つ工事現場である。
渋谷駅のスクランブル交差点前にある商業ビル、QFRONTは、99年に竣工。それ以前は、峰岸ビルが建っていた。本作にはビル全体がシートで覆われた姿で登場することから、解体工事が行われているとおぼしい。
主人公の吉井裕美(ひろみ)(三輪明日美)は解体現場を通り抜けて渋谷センター街に歩を進める。スペイン坂上のミニシアター、シネマライズ前で千恵子(仲間由紀恵)らと落ち合い、向かいの渋谷パルコでカフェに入る。
シネマライズは2016年に閉館し、パルコも同年閉店(現在は建て替えられた渋谷パルコ・ヒューリックビルで再オープン)。劇中には宮下公園、東急百貨店東横店なども登場するが、いずれも今では姿を変えている。25年の歳月は渋谷の風景を変貌させた。
こうした都市を見つめる無機質な目線は、女子高生にも注がれる。家庭用の小型デジタルビデオカメラを用いて撮影することで、都市と女子高生をデジタル信号へと変換していく。素人でも撮影可能で、機動力に優れたビデオによるドキュメンタリー風の映像からは、女子高生を理解しようなどという傲慢な考えは微塵も感じられない。この空間に棲息する彼女たちをひたすら「記録」することで、傷つきながらも刹那的に生きていく姿を刻み込む。
ラストシーンは、南の島の海岸を歩く姿が撮影されたが没となった。庵野は代案として、海へ至る前の場所で撮ることを提案する。かくして渋谷駅近くの稲荷橋(いなりばし)から、恵比寿方向の並木橋にかけて、その下に流れる汚水で知られた渋谷川を、女子高生たちが制服姿でただ歩くという前代未聞の映像が生まれた。三輪が頼りない声で歌う主題歌「あの素晴しい愛をもう一度」とともに、個々の歩幅で力強く歩く姿は、この場面にのみ使用された35ミリフィルムの鮮明な映像も相まって、生命力に満ちた屈指の名シーンとなった。
現在の渋谷川は水質も改善し、地下化された東横線の跡地が渋谷リバーストリートになって風景は様変わりした。しかし、穏やかな渋谷川を眺めていても、川面の汚物を蹴飛ばしながら、力強く歩く彼女たちが不意に現れるような気がしてしまう。
(『中央公論』2023年9月号より)