『胚培養士ミズイロ』おかざき真里著 評者:トミヤマユキコ【このマンガもすごい!】

トミヤマユキコ
胚培養士ミズイロ/ビッグ コミックス(小学館)

評者:トミヤマユキコ(マンガ研究者)

 日本のお仕事マンガ・医療マンガが多岐にわたることは、マンガ読みなら誰もが知る事実だけれど、とうとう胚培養士を主人公にした物語が登場するまでになったとは。その進歩・発展ぶりには改めて驚かされる。

 胚培養士とは、胚=受精卵を取り扱う専門職のこと。医師の指導のもと、患者から預かった卵子と精子を使って、体外受精など生殖補助医療を行う不妊治療のスペシャリストだ。

 本作の主人公は、腕利きの胚培養士「水沢」。黒髪短髪で小柄。趣味は釣り。その容姿から「坊主」と呼ばれることもあるが、職場では女性として働いている。......でも、一人称が「ボク」になることもあるので、本人の中で何か揺らぎがあるのかもしれない(が、今回はひとまず「彼女」と呼ばせてください)。職場では同僚も一目置く働きぶりを見せるが、熱血というよりはクールな印象。あまり人を寄せ付けないキャラクターだ。

 そんな彼女のもとには、さまざまな患者が訪れる。もう長くないだろう祖母にひ孫の顔を見せてあげたい女性。妻に頼まれ検査にやってくるも、精子が見つからないと言われて声を荒げるビジネスマン。子孫を絶やさないことを陰に陽に求められる梨園の妻なども登場する。妊娠したいという願いは同じでも、その背景はいろいろだ。人の命がかかっている以上、水沢たちもただサービスを提供しておしまい、というわけにはいかない。顕微鏡でしか見ることのできない、とてつもなく小さな命(ほぼ0グラムだそうだ)と、その命に紐付けられた人間の願いや痛みのありようが、とても繊細に描かれていく。

 人間ドラマに惹かれる一方で、生殖医療に関する情報を読むのもかなり興味深いし、勉強になる。私がもともと生殖医療に詳しくない人間なのもあって、本当に「へえ!」の連続だった。日本では14人にひとりが体外受精で生まれていること。胚培養士はいきなりなれるものではないこと(水沢の勤め先では3年の研修が必須)。日本が世界で最も不妊治療の成功率が低い国であること。読んでいて思ったが、自己責任論が幅を利かせるこの社会で、生殖医療は「当事者だけが知っている世界」になっている。私自身も部外者の立場で思考停止していたことを痛感した。当事者と部外者の間にある壁が厚すぎるのだ。

 不妊治療の検査に臨んだ男性が、いざ自分に原因があると判明すると動揺してしまうのも、当事者意識を育む環境が整っていないからだ。それに加えて、男としてのプライドが許さない、みたいな気持ちも上乗せされてしまう。でも水沢は言う。「これは医療です。ハジとか関係ない」......そう、ハジとか関係ないことすらも教えてもらわねばわからない人が、まだまだいる。水沢の言葉は、非常に啓発的だ。その言葉の向こうに、少しでも多くの人に事実を知ってもらいたいという作者の思いが透けて見えるようである。読者にできるのは、本作を読むことで、当事者/部外者の厚い壁を少しずつでも削り取ることだろう。


(『中央公論』2024年1月号より)

中央公論 2024年1月号
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