小川さやか×古田徹也 精読と身体 AIには教えられない知

小川さやか(立命館大学大学院教授)×古田徹也(東京大学大学院准教授)

言葉が残りすぎることの呪い

古田 そうした創造的な読解ないし精読へと結びつくためには、その古典が書かれた時代のコンテクストやイデオロギー、書き手の人生といった多様な要素をちゃんと理解して、事前に自分自身の頭の中に入れておく必要があります。これは意外と重要なポイントだと思っています。

 たとえばプラトンの『パイドロス』では、エジプトの神話を持ち出して、人々がいわば記憶を外部化する傾向に冷水を浴びせるくだりがあります。文字を発明した神テウトは、神の王タモスに対し、文字が人々の記憶力と知力を高めたと誇るのですが、タモスは否定的です。人々が物事を書物や文書に記録し、記憶を外部化するようになって、記憶力も知力も低下したと言うんですね。自分できちんと知識を得て記憶を留める努力を怠っても、表面上は物知りに見えるから、人間は中身のないうぬぼれ屋と化してしまったのだ、と。

 これは文字や印刷だけではなく、録音、録画、電子化、そして生成AIなどの技術にもつながる話です。それらが一面では人間の認識や思考を拡大させたことは間違いないのですが、他方では、知識を自分の頭や体にしっかり取り込んで自在に活用する、という機会や能力が阻害されている面も否めない。プラトンの心配は杞憂に過ぎないとは、実感としても言い切れないですね。


小川 すごく納得できるお話です。というのも、私はフィールド調査でICレコーダーなどの録音機器はまったく使わないんです。人類学の参与観察(フィールドワーク)では、正式なインタビューにそこまでの重きを置いていなくて、ともに暮らしたり活動したりする中で偶発的に漏れ聞こえる言葉を巧みに捉える瞬発力が大切です。ただ、この言葉が大事だとハッと気づくには、それ以外の場面で聞いた話をしっかり記憶しておかないといけない。

 あの人は話をしながらビール瓶のラベルを剥がしていたとか、その場所の匂いとか、表情といった五感で認識する情報と、話した内容を紐づけて記憶しておくと、その記憶と別の体験の関係性に後から気づかされることがしばしばあります。

 録音や撮影で文化を記録することもとても重要なのですが、参与観察は観察者の主観や五感から切り離されて行うものではないので、便利なツールに頼ることで感覚が鈍ることもあるのですね。今のお話を聞いていて、院生たちにもあえて技術を選択しないこと、使わないことの知恵を教えられたらと思いました。

 もう一つ思ったのは、言葉は消えてなくなるものだからこそ良い、という場面が多々あるということです。

古田 プラトンの思考に強く感じるのは、その価値観ですね。言葉は本来、特定の場で特定の人に対して発せられては消えるものであり、それが残ってしまうことで言葉の一人歩きが始まり、どんどん誤解が生まれるし、取り消すことができなくなるという考え方が見て取れます。


小川 SNSを見ていても、残ってしまうことの呪いを感じますよね。過去のつぶやきを掘り返されて、「一貫性がない」とか「謝罪しろ」と言われてしまう。もちろん過去の発言に責任を負わなければならない場面はありますが、その言葉を発したときのコンテクストやシチュエーションはほとんど考慮されないで、言葉尻だけが本質になってしまう傾向があります。言葉を発した人間よりも、発せられた言葉のほうが本質になってしまうのは、言葉の物神化という気さえします。


古田 まさにそうですね。このあたりはもはや、言語コミュニケーション全般についての問題でもあります。小川先生の『チョンキンマンションのボスは知っている』に登場するタンザニア人のビジネスマンたちの行動は、借金は踏み倒すし持ち逃げもする、言葉尻がすべてであるような社会では許されないものばかりですが、法的にはグレーの領域だからこそ成立する多面的で互酬的なコミュニティがそこにはあって、言葉が物神化する世界とは対照的です。彼らの言う「ウジャンジャ」も、日本語の「ずる賢さ」よりもはるかに多義的な意味があるそうですね。

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