『見えない未来を変える「いま」──〈長期主義〉倫理学のフレームワーク』ウィリアム・マッカスキル著/千葉敏生訳 評者:木澤佐登志【新刊この一冊】
評者:木澤佐登志(文筆家)
「これまでに生まれてきた全員の人生を、生まれた順に生きると想像してみてほしい」という壮大な思考実験を幕開けとする本書は、現在にわかに話題を呼んでいる「長期主義」なる思想潮流の理論的主導者ウィリアム・マッカスキルによる単著である。
長期主義とは何か。一言で要約するなら、未来の世代への影響や長期的視点を重視する倫理的および哲学的立場、ということになるだろう。この立場によれば、私たちの行動や意思決定は現在の状況だけでなく、未来の世代にも不可逆的かつ劇的な影響を与えうる。たとえば気候変動や大気汚染は、現在生きている人々だけでなく、何世代も先の未来の人々にも影響を与えるだろう。長期主義は、未来の世代にとって最大限に良い結果をもたらすような行動や政策を選ぶことこそが現代における道徳的な優先事項に他ならない、と主張する。マッカスキルは本書の中で、もっと簡潔に、「〔長期主義は〕未来の世代の利益を守るために、私たちのすべきことは今よりずっとたくさんあるという考え方」であると説明している。
このあたり、環境保護やSDGsなどの文脈から、私たち日本人にも比較的馴染みのある議論だと思われる。とはいえ、長期主義が懸念するのは気候変動や大気汚染だけではない。たとえば、人工的なパンデミック、第三次世界大戦、そしてAGI(汎用人工知能)が招く大惨事......。
AGIについて、マッカスキルは、それが実現すれば、あらゆる分野で人間の能力をはるかに超えるだろう、と述べる。さらに、もし単一のAIエージェントが自分自身の改良版を果てしなく設計しつづけたならどうなるか。たちまち全人類の能力の合計をはるかに超える能力を身につけるだろう。その超知性AIの目標と人類の目標が一致しない場合、AIは世界を支配し、人類を抹殺するかもしれない。そうならないよう、AGIが将来の世代にとって有益であり、持続可能な未来を築くための手段として活用されるべく、倫理的な開発および使用に関する原則やガイドラインを策定することが長期主義的観点から求められるだろう。
もっとも、私たちからすると、こうしたSFめいた思弁的議論はとっつきにくいと感じられるかもしれない。このとっつきにくさは、ことによると長期主義のムーヴメントがシリコンバレー界隈と密接に関わっていることとも関係してくる。実際、イーロン・マスクはマッカスキルと以前から面識があり、本書を「私の哲学に近い」とX(旧Twitter)上で評したりしている。
このように長期主義とシリコンバレーが結びつくと、それに批判的な向きも当然出てくる。シリコンバレー版長期主義は、何百万年、何千万年先の超未来のポストヒューマンの繁栄を重視する一方で、現在における様々な社会的問題(たとえば貧困や諸々の差別)はいたずらに軽視するかもしれない。
とはいえ、当然ながら「未来」は到底無視できるファクターではない。近年、ChatGPTなどの高度な生成AIの登場によって、AGIもにわかに現実味を帯びてきた。言うまでもなく環境問題は喫緊の課題だ。その意味でも、本書は決して私たちから「遠い」ことばかりを書いている書物ではない。未来、それは遠いようで近いのである。
(『中央公論』2024年5月号より)
◆ウィリアム・マッカスキル〔William MacAskill〕
オックスフォード大学哲学准教授。1987年生まれ。道徳的な不確実性、功利主義、効果的利他主義、未来世代の倫理に焦点を当てた研究を行う。著書に『〈効果的な利他主義〉宣言!』がある。
【評者】
◆木澤佐登志〔きざわさとし〕
1988年生まれ。思想やカルチャーについての執筆を様々な媒体で行っている。著書に『ダークウェブ・アンダーグラウンド』『ニック・ランドと新反動主義』『失われた未来を求めて』『闇の精神史』など。