藤谷千明×西村紗知「推しと批評の距離をめぐって」

藤谷千明(ライター)×西村紗知(批評家)
藤谷千明氏(左)、西村紗知氏(右)
(『中央公論』2024年5月号より抜粋)

――「推し活」が社会現象化しています。芸能人やアニメ・漫画等の作品、キャラクターなどを「推し」として応援するファン活動を指し、2021年には新語・流行語大賞にノミネートされました。藤谷さんは、さまざまなジャンルで推し活をしている方々を取材した『推し問答!』を刊行しています。一方、批評家の西村さんは初めての著書『女は見えない』でアイドルや女性芸人などを取り上げ、現代のコンテンツ消費を論じています。今回、お二人には、「推し活」が流行する背景やその問題点などをうかがっていきます。


藤谷 私は幼少期から漫画やアニメが好きで、10代でヴィジュアル系バンドにはまり、そうした趣味がライターとしての仕事につながっています。ある種の当事者として推し活ブームを興味深く見る中で、その言葉が内包するものの多様さ、複雑さを感じていました。世代や居住地、社会的立場、あるいは推しているジャンルによって内実は異なっているのでは、と。それで12人のオタクの方々に「推し活」像を問うた本を執筆しました。

 そして近い時期に刊行された西村さんのご著書も、推し活についての話から始まっています。


西村 そうですね。


藤谷 同書ではまえがきから「買手と売手」や「貨幣」といった言葉が出てきます。推し活は、大きく言えば資本主義的なものと切っても切り離せない関係があると。そして推し活について論じたものを読むと、男性よりも女性の書き手のほうが貨幣的なものとの関係に自覚的なように見えるんです。それはなぜなのか。

 それからもう一つ、近年ネット、とくにSNS上で推しにまつわる言葉が氾濫している一方で、ファンダム(熱心なファンによるコミュニティ)を傷つける批評的な言葉は歓迎されず、相反する傾向もある。『女は見えない』でも「『赤スパ』(YouTubeの投げ銭機能「スーパーチャット」で1万円を超えるものの俗称)を投げる行為自体と張り合うことになれば批評に勝ち目はない」という言葉が印象に残っていますが、推し活的な話と批評が交差する話をなさっている。今日はそうしたことについてお話しできればと。


西村 実を言うと、こうして呼んでいただいて恐縮ですが、私自身はオタクではなく、推し活をやっているのかどうかたいへん心もとない......というスタンスです。一応、推しはいますが、それについて人前で話したいとは思いません。


藤谷 それはなぜですか?


西村 私にとって推しは「心の性感帯」です。ポルノグラフィティの歌「ヒトリノ夜」にある表現ですね。私の感性はどうも1990年代止まりで(笑)。その人はYouTubeで活動していますが、私はコメントを書いたこともないし、お金を払うと言ってもメンバーシップ(月額料金を支払ってチャンネル運営者の支援をするサービス)に加入しているくらいです。スーパーチャットもやりませんね。


藤谷 たとえばSNSで「#◯◯さん推しの人とつながりたい」と呼びかけるような、ファン同士で盛り上がる、共感ベースの応援スタイルではないのですね。


西村 はい。その欲望がわからないです。ずっとファンカルチャーに疎い人生でしたから。


藤谷 「自分の好きな対象は自分の中でだけ愛でていたい」的な。


西村 そうですね。誰にも言えないことが心の中にあると、人間はちょっと強く生きていけるんじゃないかという感覚があるのですが......うまく言えません。


藤谷 私はわりと推しについて人と共有したいタイプなので対照的ですね。人の感想を知りたいし、SNSで「いいね」をもらったりしていると少し強くなれる感覚がある。これは単に「気が大きくなる」の言い換えかもしれませんが。


西村 その感覚は想像できます。そちらのほうが今はスタンダードなんでしょうね。

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