『世田谷イチ古い洋館の家主になる』山下和美著 評者:トミヤマユキコ【このマンガもすごい!】

トミヤマユキコ
世田谷イチ古い洋館の家主になる/グランドジャンプ愛蔵版コミックス(集英社)

評者:トミヤマユキコ(マンガ研究者)

「旧尾崎テオドラ邸」は東京都世田谷区の豪徳寺にある水色の洋館。これを建てたのは、天保から大正までを生きた男爵・尾崎三良(さぶろう)。彼とバサイア・モリソンの長女として生まれた尾崎テオドラ英子(えいこ)のためにこの洋館が建てられたのは、明治21(1888)年だと言われている。ちなみに英子は、アメリカに桜を寄贈したことでも知られる政治家・尾崎行雄の後妻である。

 実はこのテオドラ邸、2020年に取り壊される予定だったが、保存運動が実を結び、今年の3月から一般公開がスタートした。今回ご紹介するのは、テオドラ邸の近くに住んでおり、取り壊し決定の報に居ても立ってもいられず保存運動を始めてしまったマンガ家・山下和美による実録作品である。

 山下と言えば、自分で数寄屋造りの一戸建てを建てた顛末を描いた『数寄です!』がすでにあり、建築マニアであることは間違いないのだが、だとしても、他人の所有する洋館を保存するのは、並大抵のことではない。所有者や不動産業者の説得、近隣住民との連携、お金の工面、行政とのやりとり......次から次へと試練が降りかかってくる。しかも、みんながみんな、保存運動に協力的というわけではない。進んだと思った物事が、二歩も三歩も後退したりする。なんというかもう、冒険ファンタジーを読んでいるような気分だ。しかし、勇者山下とその仲間たちは、傷つきながらも、決して諦めることなく洋館を守ろうとする。

 一番の敵は、なんといってもお金である。最初の時点では2億円と聞いていた土地(約200坪)の価格が変動し、最終的に3億3300万円になったのだ。めちゃくちゃ高い! それでなくても山下には数寄屋のローンが残っているのに......。仲間数人と共同で買うにしても、資金が心許ない。

 ところが、ここで思いも寄らぬ人物が登場する。のちに「一般社団法人旧尾崎邸保存プロジェクト」の共同代表になるマンガ家の笹生(さそう)那実と、その夫で『静かなるドン』で知られる新田たつおだ(新田先生のシビれるような助っ人ぶりは必見)。この辺りから、保存運動はにわかにマンガ家ネットワークの底力を見せつける展開となっていく。また、SNSを通じた活動も実を結び始める。修繕費用を賄うためのクラウドファンディングを実施したところ、1829万円が集まったのだ。

 これがフィクションなら、絶体絶命の危機からの華麗なる逆転劇なわけだが、これらは本当に起こったことである。水色の美しい洋館を守りたいという、ピュアすぎるほどピュアな気持ちで事態がぐんぐん動いていく様には、思わず胸が熱くなる。

 保存運動のシビアな現実について知ることができる一方で、諦めないことの大切さも教えてくれる本作。なお、6月7日からは、昨年マンガ家デビュー50周年を迎えた文月今日子の原画展がギャラリーで始まる。行ってから読むも良し、読んでから行くも良し。あなたにも、都会の片隅で起きたこの奇跡に触れてもらいたい。


(『中央公論』2024年7月号より)

中央公論 2024年7月号
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マンガ研究者
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