阿部公彦×楠木 建「事務を知れば、世界の神経構造が分かる」

阿部公彦(東京大学教授)×楠木 建(一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授)
楠木 建氏(左)、阿部公彦氏(右)
 日本文学や英米文学の評論を通して事務とは何かを考察した話題書『事務に踊る人々』を昨年刊行した阿部氏と、企業の競争戦略を専門とする楠木氏が、今まであまりスポットが当てられてこなかった事務をめぐって、縦横無尽に語り合った。
(『中央公論』2024年8月号より抜粋)

誰のための事務か

阿部 大学での仕事は、研究と教育、それにさまざまな管理業務の大きく三つに分けられますね。このうち管理の部分が一般に「事務」と呼ばれ、みんな嫌々やるというカルチャーがあり、興味深いなあとずっと気になっていました。

 私自身、事務作業をするとミスが多くて、コンプレックスを抱えたまま今日に至っています。そういうこともあったので、むしろ事務について真剣に考えてみようと思ったわけです。


楠木 私も大学の事務とか手続きとかは好きではないし、得意でもありません。ただ、先生のご著書『事務に踊る人々』でも指摘されていますが、何のための事務なのかにもよると思うんです。自分のための事務なら、さほど苦ではない。例えばスケジュール管理は、周りを見ると秘書にやってもらっている方も多いのですが、私は自分でやっています。出張の行程を組んだり、そのための新幹線や飛行機のチケットを取ったり。そうすると、ついでにこの仕事も受けられるとか、この隙間時間にあの店であれを食べようとか、自在に調整できる。ですから事務作業の過程に面白みを見出すことはあります。それが組織のための事務となると、とたんに面倒くさくなる。


阿部 たしかに自分のための事務作業なら、案外苦にならないですね。例えば私は、論文の材料やアイデアをそこら辺に落ちている紙に書き付けたりしてよく紛失していました。そこである時期から、エクセルなどでデータ化して管理するようにしました。最初は面倒だったし、アイデアの鮮度が失われる気もしましたが、実際にやってみると非常にいい。整理することで発酵度合いが増すというか、プラスに作用している気がします。


楠木 組織のための事務に忙殺されることを避けたいというのは、私が大学を早く辞めた理由の一つにもなっています。一橋大学の教員の定年は65歳ですが、私は58歳で辞めた。大学も組織なので、誰かが運営管理をする必要があります。年齢的にそういう仕事がどんどん増えそうだったので、それは耐えがたいなと。まあ事務が嫌だというより、事務を含めた組織のマネジメントが非常に苦手ということなんですけれど。


阿部 それは非常に賢い選択ですね(笑)。私はまさに58歳になるところで、本当にそういう仕事が山のように来ています。例えば、奨学金一つとっても、実際に学生がお金を受け取るまでには膨大な事務作業が必要になります。学生が申請書を出すと、我々を含めてそれをチェックする段階がいくつもあり、最終的には大学本部からお役所にまで行くわけです。

 そのチェックも、例えば論文を読んで感想を言うときのような充実感はありません。整合性を確認するためのもので、喜びとはほど遠い。でも、それが必要な作業であることは分かるんです。お金が動く以上、点検は必要です。


楠木 要するに事務とは、何らかの取引が発生するとき、基本的に売り手側に生じるものなんですね。例えば請求書を送るのは、どうしても売り手側の作業です。買い手側が「代金を支払いたい」という書類を先に送ってくることはまずありません。利得を得る側が事務処理を負担するという構造ですね。

 だから面白いのは、私と大学との関係性。以前は雇用関係だったので、大学からの指示は業務命令であり、面倒くさいことにも従わざるを得なかった。しかし今は対等な契約関係です。私がスポンサー企業から寄付金をいただいて、そのお金で寄付講座を設置するという形をとります。つまり大学は寄付講座の売り手であり、経済的なメリットがある。こういうときは事務作業も率先してやってくれるのです。それもいろいろなルールを柔軟に解釈し、作業の最小限化を図っている。現金なものだなと。私としては、ゆっくり契約書を読んで、サインすればいいだけ。

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