阿部公彦×楠木 建「事務を知れば、世界の神経構造が分かる」

阿部公彦(東京大学教授)×楠木 建(一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授)

信頼がないところで煩雑になる

楠木 それからもう一つ、利害や取引がシリアスであるほど事務も多くなる。個人の取引で言えば、住宅や土地を買うときの事務はかなり重くて面倒です。また企業の取引で言うと、私の知るかぎり、もっとも事務が強烈なのは金融の世界です。現ナマを扱っているから当然ですが、お互いに信用できないということもあるのでしょう。これは悪い意味ではなく、オープンマーケットでの取引なので、相手の素性が分からない状態で大きなお金を動かすことが日常茶飯事。だから事務が深く強く発生するわけです。

 私の専門は競争戦略で、投資ファンドの方と一緒に仕事をする機会が多くあります。以前、すごく優れたファンドの存在を知って、個人としても投資しようかと考えたことがありました。主な出資者は銀行や生命保険会社などの機関投資家ですが、ある程度の金額を出せるなら個人に売ってもいいと言っていただいたのです。

 ところが、いざ出資に至るまでの事務の激しさたるや、想像を絶するものがありました。大学で面倒くさいと思う事務のレベルを「1」とすれば、こちらは「385」ぐらい(笑)。もう早々に断念しました。法人のしかるべき専門家でなければ太刀打ちできない事務もあるんですね。逆に彼らから見れば、大学のような非営利の事務ぐらいでガタガタ言うなという話でしょう。


阿部 個人にとって面倒な事務と言えば、遺産相続もあります。これは英文学的にもすごく面白くて、19世紀の小説にはほぼ例外なく遺産相続の話題が出てきます。

 遺産相続とは何か。今は変化しつつありますが、ある時期までは、人が代替わりしても財産や家系の正統性を維持しようとする「維持管理の思想」が濃厚に表れた制度でした。当然、文書などの記録や数字など、事務の果たす役割も大きい。小説の世界もそんな考え方を反映し、「(事務的な証拠によれば)あなたは実は〇〇さんの息子でした。莫大な遺産を受け取れます」といった展開が用意される。つまり事務作業的な要素と物語とが出会うことで、作品として大団円を迎えるわけです。こういうプロセスを通して物語に完結感を生み出すあたりが、すごくイギリス的、ヨーロッパ的です。


楠木 近代の個人主義も、ヨーロッパが生み出したものですよね。共同体意識による信頼形成とは対極にあります。だから共同体の度合いが薄いところほど、事務が発達するのかもしれません。国や地域が共同体の性格をどれだけ持っているかを測る有効な指標の一つは、納税事務の簡便さだと思うんですよ。

 例えばスウェーデンは高負担・高福祉の国として知られていますが、納税のシステムは単純なんです。領収書などを添付する必要もなく、スマホの自己申告一発で終わりという感じ。歴史的な経緯や国の規模なども理由でしょうが、根本的には共同体感の強さが大きく影響している気がします。

 一方、私の知るかぎり、もっとも面倒なのがアメリカ。もうお互いに信用していないし、自分の利益を自分で守らないとひどい目に遭うという意識が強いからでしょう。同じ理由で、イギリスもけっこう重たいと思います。

(続きは『中央公論』2024年8号で)


構成:島田栄昭

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阿部公彦(東京大学教授)×楠木 建(一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授)
◆阿部公彦〔あべまさひこ〕
1966年神奈川県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ケンブリッジ大学大学院博士課程修了。博士(文学)。専門は英米文学、特に詩。『文学を〈凝視する〉』(サントリー学芸賞)、『文章は「形」から読む』など著書多数。

◆楠木 建〔くすのきけん〕
1964年東京都生まれ。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。同大学ビジネススクール教授などを経て2023年より現職。専門は競争戦略。企業の経営諮問委員や社外取締役などを歴任。『ストーリーとしての競争戦略』『すべては「好き嫌い」から始まる』など著書多数。
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