富永京子 「しらけ世代」ではなく、「しらける運動」があった【著者に聞く】

富永京子〔とみながきょうこ〕
「ビックリハウス」と政治関心の戦後史──サブカルチャー雑誌がつくった若者共同体/晶文社

――富永先生のこれまでの研究は、同時代の社会運動にインタビュー調査などで迫るものでしたが、本書はいわゆる「しらけ世代」に影響力のあった、『ビックリハウス』(1974~85年)というサブカル雑誌を対象にした歴史研究です。なぜこの本を書こうと。


 2017年に若者の社会運動についての本を出してから、メディアの取材などで「なぜ日本人はこんなにデモが嫌いなのか」と必ず聞かれてきました。それでデモなどの社会運動が日本でどう受け入れられてきたのかに関心が向くようになったんです。これまでのよくある回答は、連合赤軍や全共闘運動への失望と消費社会化によって政治に関心を持たなくなった、というもの。ただ、特に後者の消費社会を原因とする語りは単純化されすぎに思えました。それでは消費社会の中で運動したフェミニズムやSEALDsなどもすべて否定することになる。もっと精緻に分析する必要があると感じていました。

 そんな時、前々著を出した後に行ったパロディに関する展示で『ビックリハウス』に寄せられた読者投稿を見たんです。政治に関心を失った代表格とされてきた「しらけ世代」の投稿を見て、こんなに熱狂的なのに非政治的なのは、あえて非政治的であろうとしないとできないと思いました。そうして研究を進めると、消費社会の中でも政治へのある種のコミットメントを示す若者共同体のあり方が見えてきた。

 ただ、『ビックリハウス』でよく見られた、田中角栄の鼻毛をいじるみたいなパロディなどは、政治への参加のハードルをある種下げた一方で、時にそれが「差別」に転じるなどの問題もあります。本書の中でその点にも紙幅を割いていますが、読者だった「ハウサー」の方からは、当時を懐かしめるかと思って読んだら意外にハウサーに冷たかった、との感想をもらいましたね(笑)。私としては、やりたい仕事ができたことに非常に満足しています。


――「しらけ世代」という呼び方は変えた方がいいですか。


 ある世代の20代の時だけを見て、その世代の政治意識が高いか低いかは言えないと思います。だから「しらけ世代」というより、「しらける運動」があったと認識した方が正しいように思います。世代のラベリングではなく、あくまで一時期の運動として捉える。当時の若者は政治への忌避より、上の世代への憎悪が強くてそうした運動をしたのだと思います。「あれだけ学生運動だなんだとマッチョにかっこいいこと言っていたのに、あっさり大企業に就職しやがって」のように。しらける運動でそうした上の世代からの圧力が緩和されると、一部の人はやはりアクションが必要だとなりました。『ビックリハウス』に出ていて、「しらけ世代」に影響を与えた日比野克彦や村上春樹、糸井重里など各氏も、その後に何かしら社会を意識するようになっていきます。そういう意味では、『ビックリハウス』に集った人たちは、ずっと運動家なのかもしれません。


――近年では敬遠されがちな「啓蒙」や「強制」、あるいは「動員」といったものを再評価しているように見える点も新鮮でした。


 おそらく『ビックリハウス』に見られた参加を重視する姿勢は、1960年代からの「参加民主主義」がよしとされた時代の影響もあると思います。ただ、参加したからといって簡単に民主的な主体になれるわけではありません。普段学生と向き合っていても、自分の頭で考えた結果、価値相対主義に転じてしまう事例の方が多い。

 主体的な参加を称揚する一方で「動員」が嫌われた結果、現代では政治的・社会的な価値を持つ中間集団もどんどん嫌われています。そういう「組織嫌い」のようなものの源流もこのあたりにあるのかもしれません。労働組合などの中間集団は、最初は嫌々やっていて、しばらくしてその価値に気づき、それによって個人が社会化されていくものです。「人それぞれ」に任せているだけではなく、強制や啓蒙、動員みたいなものの価値をもう一度見直す必要があるように思います。


(『中央公論』2024年11月号より)

中央公論 2024年11月号
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富永京子〔とみながきょうこ〕
1986年生まれ。立命館大学産業社会学部准教授。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了。博士(社会学)。専攻は社会運動論。著書に『社会運動のサブカルチャー化』『みんなの「わがまま」入門』など。
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