『「お静かに!」の文化史──ミュージアムの声と沈黙をめぐって』今村信隆著 評者:三浦 篤【新刊この一冊】

評者:三浦 篤(國學院大学教授、大原美術館館長)
私たちは美術館でどのように作品を鑑賞しているのか。黙って一人でじっくり観ることもあれば、他の人たちと語らいながら観ることもあろう。静かに作品と向き合う、他者と話しながら相対する、そのどちらがより正しく、望ましい鑑賞の仕方なのか。
著者の見解は明快だ。「熟視し、黙想し、芸術作品の深みへと沈潜していくこと。対話し、ときには笑い合い、隣にいる人たちとのコミュニケーションを含めて作品を楽しむこと。人は、その両方を求めてきたし、今日も求めているのではないか。芸術作品はこれまでその両方の求めに応じてきたし、現在も、そして未来も、応じ続けていく力を備えているのではないか」。すなわち、美術鑑賞における多様性の擁護が本書の基本的な立場なのである。
もっとも、近年は後者のあり方が注目され、1980年代にアメリカで開発された対話型鑑賞が多くの美術館で採用されている。ファシリテーター(美術館職員やボランティアによるナビゲーター)に導かれた数人のグループが、作品を前にして観察や感想などを交わしながら、新たな発見や認識を得る鑑賞方式にほかならない。作品に関する知識が与えられる従来のガイドツアーとは異なり、対話を通した参加者の相互啓発が眼目となる。
ちなみに、私が勤務する大原美術館は地域社会と連携しながら、未就学児童から学生、社会人までを対象とする様々な鑑賞教育に力を注ぎ、対話型鑑賞を早い段階から取り入れて一定の成果を上げている。それでも、「お静かに」と入場者へ注意喚起をするのは、他人の声に邪魔されることなく作品と対面したい鑑賞者の存在もまたリスペクトしているからである。対話型鑑賞は絶対でも、万能でもない。
本書でも、会話や語らいを通じた鑑賞の意義を述べつつも、沈黙と静粛の中でなされる作品理解の深まりの価値も認めている。そのために召喚されるのは、明治、大正、昭和初期の美の見巧者たち(アーネスト・フェノロサ、岡倉天心、岸田劉生、和辻哲郎、亀井勝一郎)の言葉である。彼らが熱意を込めて語る、作品を熟視して至る忘我の境地、茶の湯の主客一体の高雅な理想、作品との孤独で親密な交感、仏像を前にした美的=宗教的感動などは、今の私たちが忘れかけている芸術体験をまざまざと思い起こさせてくれる。
翻って、著者はまた17世紀フランス美術批評の研究者でもあって、そこから興味深い論点を引き出している。アンドレ・フェリビアン、ロジェ・ド・ピールなどの文章は社交的な会話を通した美術談義であり、作品を前にした語らいの価値、共感する喜びを称揚していたという。確かにこれは対話型鑑賞の祖型に当たり、かつての特権階級の文化慣習が蘇生して現代に広まったかのよう。そして本書の着地点に、芸術を媒介にして「人びとを別けへだてている障壁を突き破る」という、哲学者ジョン・デューイの慧眼を据えるのは、アートの力に対する著者自身の信頼を物語っている。
歴史的な厚みを付け加えたことで、美術館における「声と沈黙」の問題は重層化し、美術館勤務経験を持つ大学研究者ならではの筋の通った問題提起となった。美術館での作品鑑賞のあり方を幅広い文化的な視点から考察した本書は、美術作品との付き合い方を豊かにするためにも一読に値する。
(『中央公論』2025年3月号より)
今村信隆〔いまむらのぶたか〕
北海道大学大学院准教授。放送大学客員准教授。1977年北海道生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は美学、美術批評史、博物館学。バス会社や美術館勤務などを経て、現職。著書に『一七世紀フランスの絵画理論と絵画談義』がある。
【評者】
三浦 篤〔みうらあつし〕
1957年島根県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(美術史)。専門は西洋近代美術史、日仏美術交流史。「まなざしのレッスン」シリーズなど著書多数。