柳田邦男 事故の全体像を記録する、それこそがノンフィクションの使命【著者に聞く】

――2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故の全体像に迫った大作です。今年は事故から20年でしたが、4月25日はどう過ごされましたか。
前夜に遺族会が主催する「追悼のあかり」に参加し、当日はJR西日本主催の慰霊祭に出席しました。やはり事故から数年後の頃に比べると、参加者の数は減っていますね。
――20年の節目に刊行した理由は。
大災害・大事故の被害の全体像やそれが何をもたらしたのかを把握するには、少なくとも5年ぐらいの時間の経過が必要です。2010年頃にようやく事故の全体像がつかめてきたと思っていた時に、東日本大震災と原発事故が起こり、その取材・執筆に追われて、ようやく20年の節目に一冊の本にまとめることができました。時間がかかったぶん、事故に巻き込まれた人々の人生の屈折を描けたと思います。
――柳田さんは日本の災害・事故を長く取材してこられました。
私は最初の作品の『マッハの恐怖』(1971年)の時から、事故ドキュメントの条件として考えていることが二つあります。本書はその両輪を揃えられた本だと自負しています。
一つは事故の因果関係を方法論に沿って深く掘り下げたということです。『マッハの恐怖』を書いた頃は、まだ事故調査の方法論が確立されておらず、調査報告書の不十分な点を告発的に書くしかありませんでした。しかし、1990年代になって英国のジェームス・リーズンという社会心理学者が「組織事故」に関する理論を発表し、それが国際的な事故調査方法論のベースになりました。それまでの事故の原因を個人のヒューマンエラーに帰すような考え方が変わり、事故要因の因果関係をロジカルに追及していく、科学的な方法論が整備されたのです。私もそれを取材と分析の方法にしました。
日本では1985年の日航機墜落事故や2000年の営団地下鉄(現東京メトロ)の脱線衝突事故などを経て、欧米に遅れて常設の事故調査委員会ができたのですが、その矢先に起きたのが福知山線脱線事故でした。とはいえ、その委員会も方法論がまだ確立されておらず、07年に発表された調査結果では、運転手のヒューマンエラーとJR西日本の異常な「日勤教育」などに原因を帰すのにとどまり、JR西日本という組織の構造的な問題には踏み込めていなかった。しかし、ご遺族の会である「4・25ネットワーク」が、責任問題を横に置いて、JR西日本と共同で事故の原因究明をする課題検討会を実現させました。これは前例のない試みでした。私もそこにオブザーバーとして参加し、本書でも紹介した「なぜなぜ分析法」などの方法論を導入して、事故の背景要因の詳細なロジックフローを解明することができました。
両輪のもう一つは被害者や遺族が受けた損害、悲しみや喪失などのヒューマンドラマを描くことです。『マッハの恐怖』の頃は、この点は不消化で、次はしっかり書かないといけないという思いがずっとありました。本書では、それを書けたと思っています。事故から20年間取材していて、被害者や遺族がケガの後遺症や家族喪失のトラウマなどを克服する姿に感銘を受けました。人間の再生はドラマなんです。そうした瞬間に出合うには、とにかく現場を歩くしかないと思います。
――本書のタイトルは、ナチス・ドイツの強制収容所を生き延びた精神科医V・E・フランクルの『それでも人生にイエスと言う』から取ったそうですね。
フランクルには若い時から非常に影響を受けてきました。福知山線の事故で、壮絶な喪失体験をして生き残った人を書くと決めた時に、その人たちの心模様を表すのはこの言葉しかないと、自然と浮かんできましたね。
――現代におけるノンフィクションの役割は何だと思いますか。
時の流れとともに、どうしても事故のことは忘れられがちです。それでも事故の本質や全体像、そこに生きた人々のリアリティをしっかりつかめるよう記録すること、それが大事だと思います。
(『中央公論』2025年7月号より)
1936年栃木県生まれ。ノンフィクション作家。NHK記者を経て作家活動に入る。『マッハの恐怖』で大宅壮一ノンフィクション賞、『ガン回廊の朝』で講談社ノンフィクション賞、『わが息子・脳死の11日』などで菊池寛賞受賞。