側近の日記に見る昭和天皇――『坪島文雄日記』と『百武三郎日記』を読み解く

黒沢文貴(東京女子大学名誉教授)×古川隆久(日本大学教授)
古川隆久氏(左)、黒沢文貴氏(右)
(『中央公論』2026年3月号より抜粋)

――戦後80年を迎えた2025年、戦時中に昭和天皇に仕えた二人の人物の日記が出版されました。『侍従武官 坪島文雄日記』(全2巻、中央公論新社)、『百武(ひゃくたけ)三郎日記 侍従長が見た昭和天皇と戦争』(全3巻、岩波書店)です。それぞれの編者であるお二人に、日記から見える天皇の実像をうかがいます。まず坪島、百武とはどのような人物でしょうか。

黒沢 坪島文雄は日清戦争が始まる前年の1893年(明治26)、広島県の神職の家に生まれ、坪島家に養子に入ります。第1次世界大戦中の1915年(大正4)に陸軍士官学校を卒業して軍歴をスタートさせ、中央では参謀本部部員に何度かなりますが、陸軍省勤務はありません。軍政と軍令の区分でいえば、作戦・用兵に関わる軍令系を歩んできた人物です。満洲事変後、歩兵第17連隊の大隊長として熱河(ねっか)作戦に参加、日中戦争が始まったあとは中国戦線の歩兵第13連隊長として作戦に従事しています。41年(昭和16)9月、侍従武官に就任し、45年の3月末まで務めました。こうした第一線での戦闘経験のある人物の侍従武官への任用は珍しいことでした。

 坪島は侍従武官を務めたあとの45年4月、陸軍中将への昇進とともに、九州に新設された第146師団の師団長として転出します。師団の拠点はアメリカ軍の上陸予想地点である鹿児島で、沿岸で迎え撃つためです。しかし一戦を交えることなく8月に終戦となり、その後は師団の復員業務に当たります。いわゆる政治的軍人とは異なり、現場で汗をかいた人物です。侍従武官に採用される条件の一つは、政治色の薄さだったともいえます。


古川 百武三郎は1872年(明治5)生まれで、1963年(昭和38)に亡くなっています。佐賀で足軽から商人へ職を転じた人の息子です。弟二人も軍人で、源吾は海軍で軍令部次長、大将まで昇進し、晴吉は陸軍で中将まで昇進し、ガダルカナルへ出征しています。百武は海軍兵学校を1892年に卒業して海軍大学校へ進み、学業を終えた3年後に日露戦争が勃発、出征して戦火をくぐり、その功績が上官の報告書にも記載されています。ヨーロッパの駐在武官などを務めたあと、中央に戻って海軍省軍務局の課員を経験しますが、艦隊勤務が中心で、鎮守府や要港部の参謀長などを務めています。1925年(大正14)に佐世保鎮守府の司令長官となり、翌年に軍事参議官、28年(昭和3)には大将に昇進し、その後予備役となります。

 36年、二・二六事件で侍従長の鈴木貫太郎が襲撃され、大ケガを負うと、百武が後任に推されます。海軍出身の鈴木以前の侍従長は、外交官出身者や華族などが務めていましたが、軍人路線の継続が百武が選ばれた理由の一つです。また坪島同様、百武も政治的に色がついていないと判断されたようです。退役後の百武は、軍縮条約に反対する「艦隊派」と呼ばれる軍人たちと近しい関係にありましたが、政権打倒や海軍の中央部を糾弾するというほどの過激な意見は持っていませんでした。真面目な人柄を買われ、声がかかったと考えられます。


(中略)

1  2